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ニューヨークは重い天気の午後になっていた。リトルイタリーと呼ばれる地域を歩いていた。

ニューヨーク市の天候なら朝は少し晴れていたようだがまだ不安定な模様であり、濃密な曇り空が上から降りてきて立ち込めていた。地図ではこの辺がリトルイタリーという名称で記されているものの、古い建物の街並みは半分以上取り壊されている最中であり、更地になって下の土の色まで晒されている場所が目立ち、それで見晴らしはよいものの町の一角が丸ごと無くなっていくことの寂しさをも晒していた。冷たい強い風も川のほうから吹きつけてくるし、イタリーのアルファベットの文字を掲げた建物が取り壊されていく中で何がこの場所で目立っているのかというと、中国語の漢字であり、中国語と並んで多いのは、ベトナムの文字とタイ風の文字だった。即ち、昔イタリー街として栄えていたその一角は、アジア風の街角へと一変していくその過程にあるとでもいった風景だった。灰色の曇り空、強い風、ショベルカーで取り壊されていく更地で向こうには川岸の大きな橋のゲイトが聳えて見える。橋の全体像はこちら側の土地が低く窪んでいるので見えないのだが、それはゲイトだけでも大きなゲイトだった。そもそも橋を作るのに何故橋のゲイトまで作るのかも、日本の慣習からするとあんまり必然性がわからない。その高いゲイトからケーブルで橋を吊り下げて支えるつもりなのか、ゲイトの高さが車両の大きさの進入制限になっているかとかケースはあるが、ただ昔に作られた橋の威厳を示すためだけに、わざわざゲイトまで作るのだったら?そういう可能性もここではあっても不思議でないように思えた。

「ねえ。ニューヨークの街並みを歩いていていま気づいたよ」
更地になって過去にそこにあった街影は廃墟のように点々としてる寒々しいスペースを横切りながら、究極さんが言った。
「なにをきづいたの?」

「ニューヨークの街並みを歩いていてまず気づいたことは、アメリカ人あるいはニューヨーカー的なコマーシャルのセンスがあっても、そこで物というのは必ずしも合理的な形態に絞り込まれてあるわけではないということだよ。」

「合理的な形態って?」

「例えば自動販売機の形状だよ。どう見ても日本の自動販売機のほうが合理的で無駄がなく小型化されていて軽いものでしょう。それに比べたら、むしろヨーロッパ系の人々、アングロサクソン系人種の文明のほうが、非合理に重たい物、大きい物というのを好むのではないだろうかという気がした。」

「そういえばこっちに置いてある自動販売機はみんな図体がでかすぎるね。」

「つまりそれは非合理に豪奢であり着飾っているということ。偶像的に見えるほど自動販売機の大きさだってでかいわけだ。それは日本的な自動販売機の在り方と違うよ」

元リトルイタリーとでもいったほうがよい町の、乱雑な町並みの一角にあって、そこだけ珍しく子供たちがざわめく気配を感じる中国人用の小学校、中学校の横を通りぬけると、門に漢字で名前が書かれている。鉄の板に金色の文字で書かれた隷書体が光っている。僕らは最初の食事をそんなアジア系の植民地のように移り変わっていくマンハッタンの一角で、ベトナム料理店をみつけて取った。

「なんでこのベトナム料理店にするのさ?」

古臭いビルを改造したような構えのそれっぽいアジア系料理屋のドアを潜ろうとする究極さんに聞いた。

「えっ?だってここ、店の見栄えに看板の趣が、一昔前の日本にあった大型の中華料理店の店舗形式と似ているじゃないか。なんか入りやすいんだよ。この店の感じが懐かしい気がして。もう日本でもこんな感じの店は長く入ってないような気がするよ」

そう言って究極さんは愛らしいような目をして、その入口の汚ささえが渋く光ってるベトナム料理店の店構えを見上げた。日本だと70年代くらいの食堂やバーの雰囲気がニューヨークでは今もそのまま普通であるかのような様子だった。

究極さんは言った。
「ニューヨークの人は昔のものも長持ちしながら使うのか、それか時代や豊かさのレベルにおいて東京よりも何周か遅れをとってきたのか、どちらかだろう」