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飯塚くんとはコロンビア大学近辺の地下鉄出口で待ち合わせた。

究極さんがそう知らせてくれたが、ホテルのソファに腰から背中を埋めるように深く腰掛けていると、疲労の重い鉄板が頭を上から押すようにしているのを感じた。このまま体は溶けてしまって古いソファに首まで浸かっていたい気分だ。外は再び寒くなっている。からだは皮膚の表面に熱を帯びているのを感じている。古くて萎びたにおいもするソファだが気持ちよく有難かった。

ホテルの狭くて細長いロビーは電気を節約しているように薄暗く、カウンターの所に白い蛍光灯が輝くだけで室内の半分は暗くもう埋まっている。そんな中でやたら図体の大きい非合理的な重さを湛えているコーラの自動販売機が光っている。日本の自販機に比べてこちらの機械は余り合理的にできていない。エレベーターもやたら形式ばっていて重そうな箱なのだ。暖房装置は室内で何処かにつけてはいるのだろうが殆ど効果は感じない。最低限に節約されたホテルのロビーだ。

天井からは釣り下がったテレビが、イラクの爆撃攻撃をどこまでも限がなく伝えている。暗闇がずっと映されている中に細かい閃光だけが飛んでいる。それはこの国が実は今戦争中だということを改めて知らせている。外はもう余りにも寒そうな感じで体の皮膚は熱ぼったくだるく、出て行くのは限りなく億劫なのだが、それでも非合理な力を底から振り絞って、なんとか僕はソファから立ち上がろうと努力していた。

「くりちゃん、大丈夫かい」

究極さんが上から覗き込むようにして声をかけてれた。黒く影になった彼の顔の背後にはカウンターの白い蛍光灯が眩しい。

「なんか外はまた雪がふってきそうだね」

エントランスのガラス越しに見える外の世界は濃密な灰色の世界に埋もれているようだ。今夜もまたニューヨークの夜は一荒れありそうな予感なのだ。

「こりゃあまた絶対、降りますよ」

夜の冷たさに負けるのかそれともこの冷たさの向こうで結合される熱い人間たちのエネルギーに接続することができるのか、ニューヨークという街を楽しめるか否かというのは個人にとってこういう思い切った決断力の有無にいつもかかっているのではないかという気がした。つまりそこで楽しめる人は楽しめるしダメな人はダメなのだ。そこは冷たい街でもあるが勇気が熱く報われる街でもあるのだろう。うううっっ・・・。底から縛りつける強い大地の重力に逆らうようにして僕は腰を上げた。決意の力がはっきりしない人間はきっとこの街の力能を獲得することができない。そう自分に言い聞かせるようにして。重たい足を引き摺るようにして究極さんの後に従いながら、僕らはホテルから夜の街へと出ていった。既に暗がりで覆われた夕刻のストリート。車はクラクションを鳴らしながら何台も忙しく通り過ぎる。車が通るたび雪を踏み跳ね上げている。飛沫の水滴が玉となって交差するライトのうちで反射されて光る。ストリートの十字路には地下鉄エントランスの小さな看板が出ている。東京の地下鉄に慣れたものには余りに地味で控えめな地下鉄のエントランスという気もするが、ニューヨーク市の地下鉄とは東京のものよりずっと歴史が古いのだ。特にネオンの光も届かず、光の在り処は通り過ぎる車のヘッドライトぐらいの十字路だが、夜の町の光と影が織り成す下に、並んで立つ男女の姿があった。村田さんと飯塚くんが立っているのが見えた。

飯塚くんが笑っていた。

彼にとっては過去に留学していた経験のあるニューヨークの地に立っていることがよっぽど嬉しいのだろうか。外国の地にあってそこに慣れている友人と再会するのは頼もしいことだ。お金が底をついたり、スリに盗まれたとしても、頼るべき友が横にいるなら、すぐにここでは、何を為すべきか、方法を教えてもらえるではないか。僕は、寒さと蓄積している疲労と、そして続いている体調不良もあいまって、外に立っていると目の前の視界がぶれてくるほど眩暈を感じるのだが、他の三人はとにかくこの寒いストリートの上でよく笑っていた。なんか僕だけ取り残されている気もするが、特に考えられる力の余裕もなく、ただ三人の動きについていこうとするだけでやっとだった。

「ピエールさん、体調悪いんですか?」

やたら上機嫌の顔した飯塚くんが僕に話しかける。相手が楽しそうな顔してるとこちらが体調悪くて済まないような気もするものだが、悪意があるわけでないのはわかってる。悪意はないが一人だけ調子が外れているときに、場の波についていくのは出来るだけ明瞭で簡潔で分かりやすい自己表現で答えるべきだろう。

「こっちに着いてから寒さのギャップにやられてるんだよ。ニューヨークの冬を甘く見て薄着で来てしまった。でも大丈夫だよ。飯塚くんがここを案内してよ」
「それじゃあ早く店を決めて入りましょう。何が食いたいですか」
「せっかくのアメリカだからアメリカらしくでっかいステーキの食える所とか?」
「なんだ。肉が食いたいのかい」
「コリアンバーベキューなんてどうなの」
アメリカで食うコリアンというのもどんな味付けになってるか面白そうだなあ」
「ニューヨークっぽい店。ここがニューヨークだと実感させて納得させてくれる店。それで良さげな店なら何でもいいよ。とりあえず歩いてみようか」

僕らはストリートを、大学方面へと上に向かって歩き始めた。後ろにマンハッタン中央の繁華街に背を向けてそれは北へ向かう。この辺りでは店も人の密度も混雑はしておらず、ちょうどよい位の落ち着きの町並みで、手頃な店のネオンがストリートには散在していた。ゆっくり散歩して歩くにはちょうどよい位のリズム感をもつ街並みだ。大学の周辺は小奇麗にまとまった街の統一感が、夜と光と雪の中に出来上がっているように見えた。大学の手前ぐらいに差し掛かる角の所に、ちょっとしたレストランの看板を見つけた。小さなレストランだが中から明かりが差し出している。

「あれっ。これって『TOM'S DINNER』じゃない?」
僕は店の名前に気がついて言った。
「ああ。本当だ。これがスザンヌ・ヴェガの歌に出てくる店か」
究極さんもこの店の名前に気がついたようだ。

「ちょっとこの店入ってみたいなあ。どうよ?」
飯塚くんと村田さんの顔も覗いて見た。
スザンヌヴェガの曲で、トムズダイナーという曲がある。そういえばスザンヌヴェガってコロンビアの学生だったはずだ。これが本物のトムズダイナーじゃないか。」
スザンヌヴェガのセカンドアルバムに入ってる曲よね」
「そうですよ。これがあのトムズダイナーですよ」
飯塚くんは知っていたようだが、特にこの名前に対して思い入れがあるというわけでもなさそうだった。彼は冷静な顔をして反応を見ていた。
「入ってみようよ」

むしろ僕らのほうがこの店に興味津々のようだった。四人はトムズダイナーで最初の食事を取ることにした。店の窓から中の光が通りにはみ出している。窓から覗くと、客はそんなに多くはなかった。静かな普通のレストランという気もした。店の中の人々は、それぞれに落ち着き、淡々と静かな食事を取っている、そこにはニューヨークの夕刻時ならばありえる渋い光景が見受けられた。