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「TOM'S RESTAURANT」という細いネオンで書かれた赤い文字が、店の上には控え目に光っている。そこは控え目で凡庸な、街にとっては古くからあるレストランのようだった。大きな窓から店の中の様子が見えていて、暖かく鈍い橙色の光が店内には満ちている。カウンターがあり、カウンターの上にはクッキーを入れた大きなポッドが置いてあり、そしてテーブル席がある。四人はテーブル席を選んで座った。何の変哲もないごく普通の街のレストランだったといってよい。特に何かドラマの舞台になるような店でもなく、お客には若い人の姿も少なく、年配の客のほうが居心地良さそうな、清潔だが地味なレストランだった。コロンビアの学生だったスザンヌ・ヴェガは、だからこそこの地味で普通のレストランを利用していて、歌の舞台にしたのかもしれなかった。とにかく普通だ。そして年配色の強い店だった。お客さんの中には新聞を読んでる人が多い。語っている人は少なく、みながみなむしろ自分の世界に没頭してるだけといったような、そんな空間だ。店の中の鈍く暖かい光の下で、やはり地味なメニューを読み取った。ごく普通のメニュー。パンがあり、パスタがあり、肉があり、コーヒーがある。僕と究極さんは肉料理のセットを頼んだが、村田さんと飯塚くんはコーヒーとケーキを頼んだ。

運ばれてきた肉は、合わせ肉のような食感だったので、中途半端な値段のセットを頼んでしまったかとちょっと後悔した。なんだこのステーキは合わせ肉である。がっつりした肉を食うにはニューヨークでもそれなりに値段が張るのだ。

サイドメニューに、緑色の濃い野菜を磨り潰したものが小皿についてきた。これはグリーンぺペースト?最初この食べ物の正体が何だかわからなかったが、匂いをかぎちょっと眺めていたら思い当たった。それは昔、ポパイの漫画が日本のテレビでもよく放映されていた頃には見ていた、ポパイが劇中で食べていたあのホウレン草なのだ。ポパイはピンチになるとホウレン草の缶詰を開けて食べていたが、あれと同じホウレン草の缶詰というのを、日本では見たことなかったものだが、この緑色の磨り潰されたペーストが、僕らが子供の頃に見て憧れたこともあるあの食べ物なのだ。セイラーマンのポパイとオリーブという細長い身体に足首まであるようなスカートをつけた女の子が仲良い。何か事件が彼らの身に降りかかり、窮地に陥ったとき、ポパイはホウレン草の缶詰を開けて食べると、みるみる筋肉隆々となって変身し、悪い奴らをやっつけるではないか。あのポパイのホウレン草である。そして悪者退治した後は、ポパイはオリーブにいたく誉められるのだ。毎回がそういうオチの漫画ドラマだった。しかし日本ではああいうホウレン草の食べ方はしない。あのホウレン草の緑のどろどろとしたものは日本で流行ったことがない。子供心には、日本で見ていて不思議になる食べ物だった。日本で子供が探しても見つからなかったあの不思議な缶詰の中味なのだ。そういえば日本でも昔は流行っていたはずのポパイの漫画について、あの独特のイメージにもうめっきりお目にかからなくなってしまった。ポパイは間違いなくアメリカの漫画だが、いかにもアメリカ人的な、昔のイメージ、まだ原始的な港湾労働などが支配的だった時代のイメージを伝えるものである。あれはいわばアメリカにおける労働者のヒーロー像であったのだ。昨日入ったフライドチキンのチェーン店のイメージキャラクターもそうだったが、ポパイとはアメリカを歩いていると、まだ至る所で現役のイメージなのだろう。

「そういえば、ポパイって不思議な漫画だったよね」
究極さんが言った。
「なんでホウレン草食っただけであんなに変身するほどパワーが出るんだろうか?」
「それは不思議といっちゃ不思議だ。ホウレン草に何か必要以上の信仰のイメージが投影されていたということだからね」
「魔法のホウレン草かしら?」
「昔の港湾労働者は、あんまりいい物が食べられなかったから、肉を食うよりもホウレン草をメインの栄養源にしたんじゃないのかなあ」
飯塚くんが言った。
「本当のホウレン草の姿というよりも、あれは宗教的に投影されたホウレン草のイメージだったよ」
「しかし、日本だとポパイの漫画って、もうめっきり消えたね。全く見ないよ」
「うん。ポパイは見ないな。トムとジェリーもみなくなった。でもトムとジェリーよりも、更に遥かに、ポパイのほうが忘却されてるよ」

日本人における忘却の淵にあるポパイ。

せっかく肉とパンとコーヒーと緑のサイドディッシュを頼んだものの、いざ食おうとすると、どうも気分が悪くて調子を失してしまった。少し口をつけただけでそれ以上進まなかった。肉が合わせ肉だったのでそれががっかりして食う気が失せたというのもあるが、ホウレンソウのペーストも少ししか食えなかった。コーヒーを飲んで体を温めて出ようかとも思ったがそのコーヒーも全部飲めなかった。大部分を残してしまった僕を前に、皆に対して遠慮はいらないからと、僕は言った。もう店は出ようか。それでこれから夜の街にどこか酒飲みに繰りだすのかということだが、僕はどうも飲みのほうは着いていける自信がなかった。

「さぁ。じゃあどうしようか?」
「僕は、とりあえずホテルに戻って寝てるから、みなでどっかいって飲んできなよ」
「そう?悪いわね。くりちゃん」
「風邪薬欲しくなってきたよ。熱が出てきそうだ」
「風邪薬なら、ドラッグストアがありますよ」
飯塚くんが言った。
「そうかい?それじゃあとりあえず、この店は出ようか」