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究極Q太郎は、口の中に歯ブラシを入れて片側の頬に挟み、横から見るとそうしている究極さんの顔はぷくっと異物で膨らませていて、時々思い出したように歯ブラシを持つ手をごしごし動かしてみては、長々と自分の歯を磨く時間を、他にいろいろな作業を試してはこなしながら、楽しんでいるようだった。歯を磨きながら新聞を読んだりテレビを見たり服を着替えたりすることは、何か生活に余裕の感覚がある人ではないと、できない技ではないのか。僕はそんな気がした。というのはきっと僕はせっかちなので、歯を磨くのはすぐに済ませてしまいたいと思うほうで、たぶんあっという間にやっているほうなのだ。そうではなくて、長々と、じっくりと、歯を磨いてるプロセスを毎朝楽しむような人というのは、生活も、物事の取り組み方も、やっぱり少し違うのではないか?そんな風に考えてみると、今まさにそうしている究極さんの姿が羨ましくなってしまった。そうだ。自分も歯を磨こう。そう思って僕も毛布から起き上がった。といっても僕は荷物の中に、日本から歯ブラシを持ち込んでこなかったので、歯を磨くためには何処かに買いにいかねばならなかった。

「ねえ。この辺にコンビニの店はありませんか」

村田さんに聞いた。

「コンビニ?なんでよ」
「ちょっと僕も、歯ブラシ買いたいんだけどさ」
「日本のコンビニみたいな店はないわよ。でも駅前に雑貨店があるから。そこで生活用品も売ってるわね」
「ふーん。じゃあちょっと行ってくるよ。すいません、ここの鍵かしてください」

僕は、村田さんからこのアパートに出入する為の重い鍵の束を受け取り、外へ出た。

アパートの外へ出るとブルックリンの空はよく晴れ渡っていた。眩しい景色だった。昨夜降った雪が今は光を乱反射するばかりで、歩きながらも目を直視してよく見開いていられないほど輝き放っていた。昨夜の雪が残りつるつると滑る舗道を歩くのを半ば気を遣いしかし半ば楽しみながら昨日の駅前にまで出てきた。昨夜フライドチキンを買った店の並びには、いわゆるコンビニのようには派手な店構えはないが雑貨屋にあたるような店が確かにあった。入口には新聞が飛び出るほど積まれてるケースがあり、中に入ると古いような懐かしいような匂いのする雑貨屋だった。お菓子類があり洗剤やらインスタント食品があり、入った所の横にレジがあり店番しているコーナーがあるのだが、そこが奇妙な状況になっていたのだ。というのは、そこが箱状でガラス張りの個室になっていて、透明な箱の中には黒人の眼鏡をかけたお爺さんが、無言で仏像のように座っていた。ガラス張りの箱というか厳密にはプラスチック製なのかまでは確かめなかったが、要するに、防弾ガラスのような箱の中に、一人店員が鎮座ましましているのだ。黒人のお爺さんは厚着で布切れをぐるぐる体に巻いているような感じで、彼もこの寒い気候の中で風邪をひいているのだろうか、顎から首にかけて白いマスクが中途半端に垂れ下がっていた。雑貨店でこんな光景は初めて見るものだったが、妙にこのセキュリティ的な意味のだろう重装備の有様にはおかしくなってしまった。店員のいる箱の上部は、煙草のディスプレイにもなっていて、幾つも煙草の銘柄が並んでいた。僕は、店の中で、歯ブラシを探した。一本1ドルのシンプルで合理的な型のものを手にとって、透明なケースの中にいる黒人のおじさんに向けて差し出し、そして1ドル札を払った。透明な箱の手前には料金の受け渡しをするための穴がちゃんときれいにあいている。黒人のおじさんはやはり終始無言だった。

雑貨店の外に出た。空は抜けたように青く高かったが、ニューヨークの郊外というのはどうも滑稽な風景が多い。再びアパートに戻り、檻の城のようにアパートを厳重に取り巻いている鉄柵の中を鍵をあけて潜って、村田さんの部屋へ戻った。僕は歯ブラシを早速試してみた。こちらの企画は日本で売られている歯ブラシよりも幾分かサイズが大きく、究極さんから歯磨き粉を分けてもらって使ってみたが、こういう大きな歯ブラシもなかなかダイナミックで、歯の磨きがいがあって楽しいなあと感じていた。起きて身繕いして落ち着いてからは、究極さんと今日一日の予定について話し合った。とりあえずこれからマンハッタンまで戻り、僕らがマンハッタンを中心にして遊べるための拠点になるような宿を探し、そっちに移動しようという事になった。今日は飯塚君が成田から到着するから、村田さんは一回飯塚君とマンハッタンで落ち合い、そして夕方になったら、僕らと再び合流して、どこかで一緒にディナーをとろうということになったのだ。昨夜ここで知り合ったマイクは、まだ寝てるのか仕事してるのか分からなかったが、僕と究極さんと村田さんの三人は服装を整えてアパートを出た。

三人でブルックリンの舗道を並んで歩き、舗道の脇にはアメリカのサイズが大きな車が駐車されているのが続き、それは舗道にパーキングエリアができているからではあるが、車の上にはみな昨夜の雪が積もっており、そして見上げると、青くて寒い空の下に、廃墟のようになっているアパートもあり、そこは窓もなく空虚な暗い室内を、道路のほうへと晒け出していた。ああいう空き家に侵入するのは誰でも簡単だろうが、あれだとどんな人間であっても寒さで耐えられないだろう。そんな廃墟化した空き家の空虚さが、暗い穴ぼこか、人間の顔にとって刳り貫かれた眼の部分のようにも、通りに面した建造物の窓の飛んで無くなっている室内の形状から窺われた。