4-2

廃墟のような都市空間に降り立っていることの、ある種爽快なほどに研ぎ澄まされた意識というのは、僕が中高生の時に聞いていたある種の音楽にも繋がる。ニューヨーク的な、或いはヨーロッパ的な大都市のイメージというのはきっとその頃から変わっていない。ある種のニヒリズムを媒介にしながら立たなければそこではこの張り巡らされた都市的迷宮の機械的な統一感について把握することができない。巨大都市の老成していく姿には廃墟としての美が宿っている。この感覚に対応する表現の意識がムーブメントとして生成したのは70年代終りから80年にかけての都市的なアートシーンだろうか。もはや懐かしい意識であるがそれが今でも思い出して新鮮なように見えるのはその時代が到達していた普遍性の水準である。パンクからニューウェイブ、テクノへ、ニューヨークやロンドン、東京の音楽シーンは進行していた。例えばウィリアム・バロウズの小説を片手に、この廃墟のような地下空間について正確なイメージを持ち意識を昂揚することができるはずだ。僕がそんな時に思い出すのは80年の頃に流行っていたゲイリー・ニューマンの音楽である。そのとき中学生でラジオから受けた衝撃の感覚は今でも全く変わっていない。巨大都市と廃墟に遭遇するときそれを正確に拾ってくれる感情とは、この種の音楽以外には導かれない。ゲイリー・ニューマンウィリアム・バロウズの小説を元手にイメージを膨らませ音楽を作っていた。そこにはこれでしか得られない独特の感覚が音楽的触感として宿っている。

僕は中学生の頃にもこの音楽を聞いていた。なんか駅のホームで立小便しながらそんな感覚を得て、これを早く究極Q太郎にも伝えてあげなくてはという気がした。究極さんとゲイリーニューマンの話がしたい。小便を終えて僕は究極さんに向けて振り返った。そうしたら向こうの先から洞窟の奥で光を放つように、遅い電車がやってきて、我々の足元へと到着した。