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三月の雪降るマンハッタンでは、冷えきった環境がずっと続き店の中に入ってやっと暖かくなる。CBGBのカウンターに座って寛ぎ、酒のカクテルを頼みほっとして、そういえばしばらく前から尿意をもっていて我慢していたのを思い出した。小便したいと思っていたのはどの位時間が前だったのだろう…小便したかったはずなのをもうずっと自分で忘れていたのだ。人間の体というのは忙しい時にはそういうことも出来るのだ。店内のトイレへいこうと思って僕は席を立った。イベント用ホールの横に、カントリーの男達がリハーサルの音を出してる脇を通ってトイレへ入ろうと思った。スタッフが店内を行ったり来たりしていた。黒人の若い男の子がトイレの整備をしていた。そしてここのマネージャーと思しきスラリとした白人男性が、リハーサル中のカントリー男達に音とアンプの具合について指示を送っていた。白人男性スタッフの動きは機敏がよかった。彼の命令の出し方も慣れたものだった。

トイレのある狭い廊下に入ると、男性用が掃除中で使用できないという札が出ていた。僕は隣に立っていた黒人スタッフの、まだ少年の面影も残る若い男に、今男子トイレが使えないみたいだから女性トイレをちょっと緊急に使わせてくれないかと声をかけてみた。黒人の若い男だった。赤いTシャツを着て汗を薄っすら浮かべながら作業していた。からだは大きくないが少し太っていてその辺はがっちりした感じがしていた。日本人で言えば柔道でもやっていそうな感じの体型だった。背が低くてがっちりしているのなら柔道をやればよい。といってもその黒人の彼は決してスポーティな感じではなくどちらかといえばオタクの音楽好き、サブカル好きといった感のニューヨークにいるような黒人少年だった。しかしその若さにある過剰さについては何か不完全に持余していそうな男だった。年の頃はまだ十代なのかもしれない。あるいはもう二十代なのかもしれないがその辺はよく分からない。まだ少年ぽい顔したあどけない表情の残る黒人スタッフだが、彼の言う事ははっきりしていた。ダメだ、と忙しそうな彼は僕に無下に言い捨てた。あれ、しょうがないなあ…小便すごくしたいんだけどなあ…と思いつつ僕はしげしげとカウンターに戻った。

「なんか男子トイレが掃除中みたいなんですよ」

究極さんにそう言った。

「ちょっと女子トイレ使わせてくれないかなあ…すごくしょんべんしたいんだけど…」

カウンターの横を、さっきのマネージャーらしきスマートな動きの白人男性が通りかかった。白人男性に声をかけた。トイレに行きたいんだけど男子用が今掃除中で使えないんだ、緊急に女子用を使わせてもらいたいんだがと、呼び止めて言った。しかしさっきあの少年に言ったら使わせてくれなかったんだが、どういうことだろうかと。すると白人スタッフは、即座に申し訳ないと僕に謝り、女子用を使っていいと言ってくれた。僕はもう一度トイレの廊下に戻り、さっきの黒人少年に、あのマネージャーが使っていいと言ったから女子用を使わせてもらうよ、と一言声をかけた。黒人少年は特に何も言わず忙しそうにしていて、僕をじろりと一瞥し、そうかという顔をした。

まだ客のいない店内で女子用のトイレに入った。トイレの内部は日本のそれと同じ要領だったが、便器についてるプラスティックの便座を上げて用を足した。僕は立って放尿した。薄いブルーの便器だった。向こう側の壁には大きなミラーがついていた。それで便座を上げたときに放尿しながら目に入ったのだが、そこでなんか見てはいけないものを見てしまったという気がした。通常女子トイレで便座が上げられることは少ない。掃除の時ぐらいのものだが、それでも清潔に気を使う店の人ならば念入りにしてそこも洗い拭くものだろう。しかしアバウトで気分的にはイージーでワイルドなライブハウスの場合、やはりそれらしくポッドの掃除になど特に念入りになることもない、きっと掃除の仕方も大雑把でワイルドなのだ。プラスティックのボディに人間の排泄物が跳ね返り反射する場合、プラスティックと生物の排泄物の間では、長期間に渡ればそこで化学反応が生じてくる。人間の排泄物にある分解的で化学的な成分というのは、時間をかければプラスティックをも溶解させる。その位の威力はもっている。人間の内臓の体液というのは馬鹿にならない位に激しく化学的なのである。硬い物体を溶解させるだけの酸性も備えている。そして別に排泄物の質に男性も女性も関係ない。小便をしていた僕は、便座の裏側が上がったのを見て、そこがどろりと溶解しているのを見た。便座の裏側だけ古めかしく変色しており溶けていた。何年同じ便器を使えば、こんなにも人間の排泄物の要素というのはプラステッィク製品を侵食できるのだろうかとか、その暗い裏側の時間性について想像してしまった。ポッドに小水を落としながら。パンクスのメッカであるだけにトイレの使い方もワイルドなものであるには違いないが、それでも他と比べればこれはまだよいほうではないのか。きれいな方ではないのか。そんな気もした。立ったまま小便をしながらちょっと考えてしまった。

体内にある小便をもう全部出し切ったと思い天井の光を見上げて目を瞑った。

トイレを出ると、さっきの黒人少年が白人のマネージャーに叱られているのを目撃した。僕に女子トイレを使わせなかったので、黒人の少年はマネージャーに叱られてしまったのだ。その調子は結構きつくガミガミ言われているようだった。僕はその横を通ってカウンターに戻った。席に座ってから振り返ると、マネージャーの白人は立ち去りカントリーバンドの方へ向かい、黒人の少年は、shit!と叫んで悔しそうに壁を一発殴っていた。それは彼にとってとても正直な感情であるように見えた。ストレートに正直な少年の感情の発露。その光景は、CBGBのようなアヴァンギャルドを売りにする店であっても黒人と白人の間で雇用慣習における階級的な落差というのはやはりあるのだろうかと思わせた。黒人の少年はそこでかつての使用人のようなイメージだった。そこでは丁稚ぽい扱いというか。これが普通の白人的なカントリーハウスならば、スタッフに黒人が雇われているという事自体も珍しいことなのかもしれない。曲がりなりにも黒人のスタッフがいるということは、ニューヨークの前衛的な店ならではのことなのだろう。そういえば、黒人でパンクを自称するアーティストというのは滅多に見たことがない気がする。パンクという音楽ジャンルであってもやはりそれは圧倒的に白人の多いジャンルである。中にはパンクバンドのメンバーに黒人を入れているものもある。パブリックイメージのジョン・ライドンのバンドでは黒人が入っていることも結構ある。しかしそれでも積極的に黒人がパンクで自己主張している姿を見ることというのは珍しいだろう。CBGBにいた歴代アーティストの写真をウェブサイトなどで見てみても、やはり黒人は圧倒的に少ない。日本人は何人かいる。ギターウルフ少年ナイフボアダムズといったものだ。

カウンターのテーブルに戻ってくると、頼んでおいたカクテルが出来上がっていた。ブラディマリーとソルティドッグだ。僕はブラディマリーをすすり、究極さんはソルティドッグをすすった。究極さんは、それじゃあ村田さんに電話してくるよ、といって席を離れた。究極さんが立つのと入れ替わりに、さっきの黒人少年は、僕らがいるカウンターの隅へと、反対側の端にやってきて座り、女の子にビールを要求した。仕事が一段落ついたので一息つきにきたのだ。女の子は、よく分かってるよという感じで、黙ってスムーズに黒人少年の前に休憩のためのビールを差し出した。労働の合間の一息という感じで、彼はぐいと一気にビールを、顎を上げて飲み込んだ。そして遠い目をしてグラスを両手に抱えたまま動きを止めてじっとしていた。何かを考えているのかもしれないし何も考えていないのかもしれない。とにかくそれは労働の合間の一息だ。彼の体はグラスを持ったまま固まり、彼の目はしばらく虚空を見つめていた。とてもそれは遠い目だった。そして密度の凝縮したような、彼にとっていっときの時間性だった。


(僕らが入ったCBGBのカウンターとホールで、配置は変わっているが、87年に当時メジャーデビューをした直後だったガンズ・アンド・ローゼズがイベントをやった映像が残っている。)