文学の名誉

1.
昨夜NHKのニュースを見ていたら村上春樹の『1Q84』の中国語訳が発売になったということで中国の土地では大きな文化的話題になっているという報道を見た。村上春樹は中国でも熱狂的なファン層をつかんでいる模様であるが、ニュース映像で中国人の興奮ぶりを見たところ、日本よりもずっと過激に反応している印象を受けた。

それは日本人が文化的に成熟しているがゆえ、文学の話題などで一定のブームはあるにしてもそんな過激に動かされる程ではない、しかし中国人のレベルだと、あの国ではまだ文学に対する素朴な信仰心のようなものが残っていて、文学的なヒーローというのにアイドルへの熱狂と同じように転移してしまう文化的段階というのがありそうなのだ。実は文学がカリスマ的価値を帯びてしまう現象というのは、ある種文化的後進性を意味しているではないかと、そんな気がしたのだ。



2.
かつてはビートルズのレコードに人が殺到した。同じようなレベルで村上春樹のイメージも熱狂的な集団転移の対象になってしまうことが、そういう現象は殊に文学では激しすぎて珍しいだろう。すごいんだなと感心しながらちょっと奇妙な気がした。日本でも1Q84は大きく話題にこそなりはしたが、しかしあの中国人ののめり込みぶりは、対象が文学にしては今時異様ではないか、珍しいのではないかと思った。

こういう現象はどういうことかというと、中国では文学もまだカリスマ的価値を帯びやすい。そもそもカリスマという幻像が成立しうるような環境と体質が社会に残っている。日本でカリスマやアイドルが機能するとしてもそれは大衆文化のうちの軽薄な側面と見られるが、中国では純文学のラインでもいまだに幻像操作が可能であるような素朴な読者構造がある。いまだにそういうマスな意識的統合のプロダクトラインで社会が動いていて生産されている。しかし日本をはじめ一定の文化的成熟を経た後の国では、近代文学は終わったとでも言うように、文学に対する過剰な信仰心が残されている余地はとてもない。

カリスマ的転移の対象というのは、現象としてそういう形が社会の中に一般的な体質として備わっていれば、そこに当てられる対象自体は、常に集団現象の中で移動しているわけで、時と場合によって交換可能であり交替している。例えばそのような転移対象の位置に、かつての中国だったら毛沢東毛沢東語録を当てることもできた。まず集団現象とカリスマ対象の関係性が次元として、幻想的に出来上がっていて、そこに当たる対象が、時間軸によってただ移動しているだけなのだと想定される。



3.
日本でもかつては文学的ヒーローが、社会学的なイメージとして機能した時代があったのだ。しかし日本の場合ならばそれはもう昔の時代である。ドストエフスキーの翻訳が最初に日本の店頭に出た時代ならば、今の中国の村上春樹像のように、熱狂的信仰の対象として、やはり持て囃されていたはずである。太宰治に過剰に転移される現象もある。しかし太宰が好きですとか他人にいっていたら何か気恥ずかしく憚られるというような平衡心の冷めた感覚も今の日本人ならば備えている。(中国でも村上春樹への転移現象をいま醒めた目で見ている人々はきっといるはずだが。単にそれは報道されていないだけである。)

日本で文学の価値として、無防備な転移が許され可能になるような時代は既に終わった。文学に対していわば慎重な距離を置くようになったともいえるが、単に文学に対して白けたのだともいえる。いずれにしろそれも国民性にとって文化的成熟の一つである。

しかし、ニュースを見ていて思ったのは、文学あるいは小説というのは、まだ何処かの部分では、虚構化された村上春樹現象に憧れることを欲望する部分があるのだろうかという疑問が残ったのだ。つまり小説が書かれることの動機が、名誉への求心力によって支えられている部分が、どの程度にあるのだろうかということだ。中国でカリスマ化した村上春樹のイメージとは、虚構として既に空虚な巨像であるということは現象の報道を見るときに分かるし、そして我々は、村上春樹本人その人は、そういった虚構の支配について全く関心がなく、むしろいつも批判的に嫌っている人だということもよく知っている。



4.
しかし、あのような抽象的な名誉の生産に、社会学的に関与し再生産することが、やはり文学には機能としてあらかじめ備わっているのだろうかということである。文学とは、名誉の社会的構造を批判してる限りでは真摯なものに見えたりもするのだが、それ自体単純な名誉の対象になってしまうと何か奇妙で、嘘っぽいものに落ちてしまう。ノーベル賞という記号の流通についても同じ胡散臭いものがある。しかし名誉への欲望というのがやはり何処かで保障されていないと、文学とは全く書かれないものになってしまうだろう。

人は、気概というものがないと、野心的に制作への意欲が沸かない。社会の中で何かやってやろうという気が起きない。欲望が沸かない。希望が沸かない。そういう動物である。人間とはそういう動物的構造を持っている。何かをやってやろうという気概とは、欲望として、野心として、それ自体本当は問題を含むものだが、しかしそれなしに人類の歴史とは今まで進歩もしてこなかった。だから文学にも名誉の構造というのは残しておかなければならないのかという問題だ。しかしそこまで考えると問題は、文学だけでなく制作活動、そして政治活動一般の問題にまで広がってしまうことだ。



5.
制作という意欲を支えるのは、何かの気概なのだろうということ。そして人間にとって気概の存在というのは、不透明で不純なものを常に残すということである。そこでは他人を犠牲にしている場合も多々ある。文学の幻影に対する中国人的反応はやはり後進的なものと考えていいと思う。しかしそれでは制作と前進への原動力としての気概を、成熟する社会は何処に維持できるのだろうかという問題が残る。文学の虚像を剥ぎ落とし、向こう側の風景が伽藍と見えてしまっているところで、まだ文学の体系に実践的意味を見出すことができるとは、どういうことになるのだろうかと。