バッティングマシン

1.
普段お金に使い慣れていない人に、少々まとまったお金が入ったりすると、ついつい使い道に迷ってしまって変な物を買ってしまうとはよくあることだ。

そういう御多聞の傾向性に漏れず、分かっていてもやってしまうということもあるわけであって、特にドンキホーテなどに深夜立ち寄ったりすると変な物買いの好奇心は刺激されてしまう。ドンキホーテだけでなく郊外型のショッピングセンターというのは、昼間でも商品の並んだ列の間を歩いているとそういう好奇心の誘惑にみちている。

2.
変な商品への好奇心を刺激させる構造とは、ショッピングセンター型の文化にとって、一朝一夕に出来上がったものではなく、長年に渡り熟成されながら続いてきた立派な文化形態であり、商品を陳列するための技術的な棚の構造である。だから思うに、そういう好奇心の罠に対して、特に逆らうべきでもなく、余裕のある人ならば、進んで商品のジャングルの奥へいって、自分の判断力の有効な限界について、ぎりぎりまで試しにいってみるというのも、ちょうどよい試練にでもなるかもしれない。

それでついついドンキホーテで変な物を買ってしまった。3990円のバッティングマシンである。それは小さな機械である。電池で動く小さなマシーンの穴からは、柔らか目にこさえられたボールが幾つも飛び出てくる。10個程度は機械の上に乗せて連続して投げ出すことができる。出てくる瞬間ははっとするような結構な速度がついているので、使い道を工夫すればそれなりのトレーニングにはなる。それをプラスチックの軽いバットで部屋の中で打っている。

3.
最初はそれを外で打って試していたが、すぐに球拾いを一人でやるのに面倒臭くなり、これなら別に部屋の中でもできるのだろうと、部屋をざっと片付けて室内でやることにした。これはスポーツ用品の進化ともおもちゃの進化とも両方取れるのだが、ボールの種類一つとっても昔と比べて格段と多様性が増し、商品が進化していることに気がついた。

野球で使う堅いボールは、硬式と軟式用があり、更に競技としてのソフトボールで使うボールとは、野球のボールよりはやわらかいとしてもやはりそれなりの堅さはあり、それ以下はおもちゃのボール、ゴムボールというように続いていたが、その中間のような微妙な柔らかさ、堅さのボールというのが、今では結構発明されていて売られている。

やわらかいボールを使うとすればテニスボールで代用することも可能だが、テニスボールよりも更に柔らかめの、野球の簡単な練習になるようなボールというのが、大きな店の棚には並んでいた。

野球とはどういう練習の仕方をするとうまくなるのかということだが、まず反射神経を鍛えられるようにしなければならない。大掛かりな集団的練習に参加するのではなく、日常生活の片隅のちょっとした暇の中でそういう能力を育てようとすれば、おもちゃのようなマシンでも出来るのだ。

4.
バッティングセンターの文化というのがある。特に日本ではよく発達した文化である。そもそも野球がスポーツとして一般化して普及している文化を持つ国というのが、世界の中では限られているわけであって、要するにそれはアメリカと日本とキューバであり、他にはせいぜい韓国と台湾ぐらいだが、野球とはもともと一人では練習しにくいスポーツである。

キャッチボールをするのにも相手の他者というのはいるし、そもそもバッティングというのを一人で練習するのは難しいことだ。野球というのは集団性やグループ性、そして他者性というのが、最初の時点から殊更に意識され必要とされる、本来は随分面倒臭いスポーツなのだ。

そういう野球というスポーツの抱え込む不合理性を解消するような条件を作っていったのは、マシンの進化である。70年代に日本ではバッティングセンターが文化になって導入された。アメリカではバッティングマシンとは多分もうちょっと前からあったのだろうという気がするが、バッティングマシンのシステムが流行るようになってから、野球の文化的な在り方というのも、社会の中で随分と進歩を遂げたのだ。

それまでは個人が一人では野球というのはなかなか練習しづらい、ゆえにスキルとして上達しづらいスポーツであった。だから集団で練習できる機会から人が追われれば、もう野球を練習し上手くなる機会さえも奪われてしまうに等しいもので、要するに学校のクラブ、大学の体育会といったチームの集団性から外れれば、練習する機会さえもなくなってしまうようなスポーツであり、それは団体競技の一種であった。

5.
しかし70年代からバッティングセンターのシステムというのが文化として発達するようになると、環境は変わった。一人でも野球の練習をすることが可能な環境になったのだ。それ以降はバッティングセンターのシステムの恩恵なしには、この人は出て来れなかっただろうというような選手を生み出したのだ。

例えば、落合博満のような選手は、バッティングセンターなしには出て来れなかった人物である。若い頃の落合は、集団主義が嫌いで反発し、東北から上京し東洋大の野球部にいたがすぐにやめて大学も中退してしまった。落合がかつて所属していた東洋大の野球部というのは、うちの近所であり、東上線の川越から奥まった所にあるのだが、当時の若い落合が、東北の高校から上京してきたのに田舎染みた環境に嫌気が差し大学をやめてしまった気持ちはよく分かる。大学をやめた落合の日々は、パチンコにボウリングに、映画を見漁り、バッティングセンターに通う日々だったという。

6.
はぐれ雲のようになった落合博満が野球を、一人っきりで練習できた場所というのは、バッティングセンターである。逆にバッティングセンターがもしなかったら、落合はプロ野球選手にまでなれなかった。(落合は最初プロボウラーになろうと思っていた。)バッティングセンターのシステムによって最初に生き延びて出て来れた野球選手というのが落合だったのだ。これがイチローの世代になると、バッティングセンターの文化はもう当然の存在として定着している。イチローが名古屋で子供の頃から父親と一緒に通っていたのはバッティングセンターだった。

あの個性的なバッティングセンスを養う上で、集団性から離れたところで、一人でマシンと向き合うことによって、ボールの性質を見極めることの出来る私的な空間性として、イチローの才能が成長する上でも、バッティングセンターとは重要な位置があったのだ。

昔、バッティングマシンとは非常に高価な代物であったが、今ではおもちゃのようにも拡散した。システムの進化でもあるが、有り難い恩恵でもある。野球の面白さを真に人が発見するためには、機械の延長をこういう私的な空間に持ち込むことも意味をもつ。スポーツ競技の種類とはそれが稀有なものではなくなることによって、真にその面白さが理解されるようになるのだろうから。