松本人志の『しんぼる』

1.
松本人志の新作『しんぼる』を見た。まず最初の数分間、あれは3分ぐらいあったのだろうか。早速ガツーンと来た。流石だな。またやってくれるなと思った。しかしこのすごさが今回の映画は二作目として何処までもつのだろうかという疑問も沸き、二作目にありがちなたるさに付き合うのかもしれないとは、少々覚悟した。

『しんぼる』とは題名からも予想できるが抽象的な映画である。この徹底的な抽象性が、松本人志にとって何に基づくものなのか、分析するのは少々難しいかもしれない。しかしそれは何物をもメタファーとして代弁していない、それ自身における「しんぼる」だったのだろうか?いや、今回の映画はどうやらそこまでは難しくはない。論理的な跡付けは結構簡単な「しんぼる」であり、抽象性だったと思う。

この映画の謎を解く鍵があるとすれば、それは結構簡単で、映画の終了時、テロップの最後のところに、今回の映画のスポンサーの名前が出てくるが、それで大体起きていた出来事のすべては推測がつくのではないだろうか。今回の映画の提供者は「クリック証券」である。

2.
クリック証券とは、ネットのデイトレードを中心にして最近業績を伸ばしてきた会社である。新しい現象、新しい習慣性としてのデイトレード的日常という観点からこの映画を見たら、その抽象性においてこの映画が実は余りに分かりやすく、正確な機械のように出来ていることが、きっとよく自覚できることだろう。

「しんぼる」とは、四角いキューブのような部屋に、何故だか閉じ込められている、松本人志の一人芝居を中心にした映画だ。松本人志の独演というか、自作自演がすべてを決めているような映画だ。この閉じこもりは何を意味するのだろうか?松本人志の姿はといえば、パジャマ姿に、髪型は金八先生の若い頃のような、武田鉄矢がかつて演じていたような長髪だが、それがマッシュルームカットになっているのでちょっと違う。黒い長髪は寝巻き姿とはいえ櫛はよく通っている感じで、事あるごとにその髪を片手でかき分け耳を丸くなぞるような仕種をする。そのナルシズム的な癖の持ち方においてあの特徴的なイメージはやはり少し入っているだろうか。

パジャマ姿の松本人志とは、引きこもりのメタファーだろうか?そのように取れなくもないが、しかしこの出口のない四角い部屋に閉じ込められてしまったことは、単なる事故なのかもしれない。それは四角いモナドに閉じ込められた男の世界とでも言おうか。モナドに窓はない。しかし、出口を示唆する幾つかのヒントが、松本には常に与えられ続ける。出口を見つけるためのゲームが映画的に始まることになる。

3.
四角い部屋の壁には、幽霊のように多数のサインが浮き上がっては消えていく。サインの特徴は、男の子の赤ん坊のような天使の姿で、亡霊のような形をしており、変幻自在に現れては消え、天使の小さなペニスが壁にはボタンのように浮かび上がっている。松本がその壁に突き出た小さな子供のペニスボタンをいじくっていると、反応し、声があがり、部屋には何かの兆候がその都度出現することになる。

男が探しているのは出口であるが、出口を見つけるまでの過程が、これまたゲームとしては意地悪く出来ている。うまく出口を探し当てるための様々な工夫を、男は自力で発明しなければならない。

松本の四角いキューブの部屋とは、天使のペニスの信号において、地球の裏側に、即ち南米の田舎町の出来事に繋がっている。松本の孤独な行為に反応しているのは、南米の田舎町の、中年で冴えないプロレスラーの人生であるようになっている。この奇妙な映画的設定についてどう考えればよいのだろうか?しかし答えは結構簡単だと思われる。

この映画で松本人志のやっている行為とは、要するにデイトレードである。松本は、クリック証券が新しい映画のスポンサーに決まり、実際に自分でトレードを体験したのだろう。この映画は、トレードゲームの過程を、まさにそのまますべてにおいて描写しているという風である。映画『しんぼる』の正体とは、松本人志デイトレ理論といったものになっている。

出口に近づくには、ダブルバインド的な仕掛けを次々とクリアしなければできない。こういったらあっちが塞ぎ、ああやったらこっちが塞ぐという二重拘束的な仕掛けの罠を潜る方法を、次々と発明し直し、松本は出口の戦略へと近づいていく。

4.
一番それがメタファーとして分かりやすい絵とは、松本が最終的な出口へと至る、ロッククライミングのような壁を登っていくとき、いつのまにか髪型は麻原の形に変わっていて、地球の裏側の南米の田舎町では、対応するレスラーが突然リングの上で起死回生的に勝ちまくり始める。

松本がロッククライミングの壁をつかみ、その突起になってるのがやはり天使のペニスであって、つかむたびに高い声が響くのであるが、松本が調子付くのとシンクロして、南米のプロレスラーは首がにょきにょき長くなり、長くなった首と頭で、敵のレスラーに頭突きを食らわし、敵どもを次々なぎ倒し始めるのだ。(しかしそのうち、レフリーも味方も自分の子供までも長いキリンのように伸びた首は見境なくみななぎ倒し暴走していく。)

プロレスラーの首がにょきっと長くなる姿だが、あれはFXのグラフで急激な高騰を見せるとき、ネット上でグラフの反応する図にそっくりである。松本が壁のペニスをクリックするたびに、地球の裏側ではレスラーの首がにょきにょき長くなり、レスラーは無敵の大勝を収める。そういう図式になっている。これは余りに分かりやすい映画である。

グラフが急激な高騰を見せるとき、それを2ちゃんねる用語では「パイーン」というのだが、まさにプロレスラーの首がパイーンするという図なのだ。松本がペニスボタン(しんぼる)をクリックするたびに。松本人志の自己イメージとは、箱から外へと出て行く過程で、武田鉄矢ダウンタウンブギウギバンド→麻原、といったそれぞれの類似に乗り移るような変遷を遂げていった。

この映画は、現代人の引きこもり的なモナド内生活の模様と、その出口としてデイトレード的行為の模様をシンボライズするものと考えれば、余りに分かりやすく理解可能である。新しいコンピューター的な生態系を生きる現代人が、ネット的な抽象世界との繋がりの中で、いかに孤独に、ヴァーチャルに、音もなく静かに、しかし正確に、自分の出口を見つけるのかという問題になっている。まさにそこでは誰も松本を助けてくれない。松本は徹底的に最後まで独りである。

5.
果たしてこのモナドに外部はあるのだろうか?しかしやっぱりモナドモナドであって、具体的なイメージとしての外部とはないが、あくまで出口に風穴というのも、抽象的な形で示されるネガティブな隙間から漏れ出てくる光である。この映画ではそこまで内的描写について、リアルで正確であるところが、やっぱり凄い。恐ろしいまでに松本人志の認識とは正確なのだ。

同時に、デイトレのゲームに内在している狂気の次元というのがやはりある。この内的狂気の実在こそが厄介なものであって、デイトレーダーとは成就するためにはこの狂気とこそ戦わなければならないのだ。それは本当に孤独な戦いであるが、真の闘争にある絶対的な孤独さの次元にこそ、松本は近づいていこうとしているように見えるのだ。

PCとネット機械に媒介された、孤独でありながらしかし決して孤独ではないといったような現代的モナドの特徴である。モグラ穴のような自宅部屋に生息する個人の、内的世界の暗闇を掻い潜る葛藤にとって、前向きな映画として『しんぼる』は完成されている。それにしても松本人志の研ぎ澄まされた抽象能力についていえば、やはり今回も脱帽だった。