ロンドンの街と資本主義の文化

1.
デイトレードをやりながら気になるポイントとは、トレードをしているあいだの間の取り方である。トレードというのは、発注と決済のタイミングの良し悪しによって、天と地にも大きく結果が分かれてくるものなので、この間の取り方というのに、どこまで我慢できるか、耐えられるかというのが、重要なポイントになってくる。

待ちすぎても何も起きなかったり、大きな利益をみすみす目の前で逃がしてしまったりするし、待たなくても利益のヤマを見逃してしまう。それは待ちすぎてもだめだし待てなくてもだめなのだ。

だから集中して的を狙い続けているというより、別の事で気を紛らわしながら、出来るだけトレードについては忘れながら、しかし目を見張っているという状態で長時間付き合えることが、そこでは望ましい。デイトレードの極意とは、この時間性の間隔における間の取り方のセンスによるところが大きいのだ。

ネットの画面でグラフと値段の推移を見守りながら、出来るだけそれだけに興味が奪われてしまうのを逃れて、パソコン上では音楽を流していたり、ポッドキャストのラジオを聴いたり、テレビを流したりする。持続的に長時間、複数の作業をこなし、時間をトレードのことだけで無為に過ごしてしまわないようにして、根気をもって続けるという状態が要求されている。

このようにトレードというのは長丁場の持久戦になることが多い。合間には本を読んでいたり、パソコン画面上でDVDの映画を流しながら、映画を見るのを細かく区切っていって、素早くトレードの画面も切り替えるといった風にしていると、長時間座りながら見詰めている作業もまだしのぎ易くなる。それでデイトレードをしながらパソコン上では同時に映画を見ていることも最近多くなってきた。

2.
資本主義の歴史において、最初に資本主義がそれ自体として回転しやすくなるような、様々な合理的発明を為していったのは、大体ロンドンにある市場文化に負う所が多い。資本主義の発明において、ロンドンという都市で独自に発達していた市場的慣習の果たしている役割は大きいのだ。

だから、資本主義の起源を考える上で、このロンドンという土地柄、そこの市民性、慣習性というのを考慮に入れないわけにはいかない部分があるのだろう。市場的取引の習慣において、ロンドンの市民とは昔から、物事をどこまでも極端に合理的にして、物として扱いやすくして考えるという習慣があったのだ。

19世紀に、株式市場の形式を発明し大きく発達させた、ロンドン市民の慣習的思考とは、ニューヨークの市場形成においても大きな原初的影響を与えた。ロンドンで発明された株式市場の基本形式をもっと大規模に発達させたのは、ニューヨークの市場とアメリカ人の気質だったが、商取引から金融形成の基本形について、その発明的な役割を担っていたのは、やはりずっとロンドンの市場文化だったということはある。

株式市場の世界的中心がニューヨークになった後でも、ロンドンの街は資本主義の先進的発明と合理化においては常に抜きん出ており、リードを続けた。20世紀後半の世界市場を特徴付けることになる金融資本主義の発明というのも、やはりロンドンの資本主義がリードしていったものである。今でもロンドンという街の主要な産業としてあげられるものとは、この金融資本の取引以外にはない。ロンドンが、金融資本主義のメッカであり、発明的な中心であるという地位とは、今でも続いている。

3.
そのようにして見たとき、ロンドンとは奇妙な街である。資本主義的な産業の全体的な生産性としては、イギリスは、とうの昔にアメリカにも日本にもドイツにも抜かれ及ばず、特に具体的な生産業としてはリードするものを失っているとしても、金融資本主義を発明する立場としては、いまだにロンドンの金融取引の文化とは揺らいでいない。特にイギリスという国が、今でも世界的に引けをとらず誇れる産業というのは、この金融資本の文化しかないのだ。

具体的な生産業の持分としては、どれも斜陽的なものが多く、余所の国に抜かれお株を奪われているものがイギリスには多い。街の雰囲気としては斜陽的に黄昏た空気は蔓延してるし、失業者も慢性的に多く溢れ出ているので、倦怠感のほうが漂い出しているような場所である。にもかかわらず、金融資本業においてだけはいまだ活気があり、自分達が最先端だというプライドを持っている、そういう人々が上層部にはいて、街を支配して見下ろしているような場所がロンドンである。

そこには過去から続いてきた都市の栄光の記憶と、現実には老成した社会構造の縮図がないがしろにして交じり合っている。この奇妙な歴史的背景が、ロンドンという街の空気を作っているのだ。

ロンドンという街の構造とは、ヨーロッパの中でもいち早く自由を実現してきたという意味で、そこに住む人々はプライドを持っているし、外国移民というのもリベラルに、人権的に寛容に受け入れてきた。しかしロンドンの持つ歴史的な自由と寛容の文化は、その懐の大きさと曖昧さ故に最も早くパンクしてしまい、挫折している文化でもある。街の中で増大する自由の度合に対応しきれず、自由における退廃の側面が最も露骨に表出し問題化しているのも、ロンドンの風景の特徴である。都市の監視社会化という点からいえば、ロンドンは最先端に監視機械やゾーニングが進行している。

地下鉄に乗る料金が最も高いのもロンドンの特徴である。監視カメラによる管理が徹底化し、犯罪の取り締まりも強権的で、容赦ない地域という点で、ロンドンは最も進行している場所の一つである。中途半端な寛容の文化と、治安の為の強権的ではっきりとした発動というのが、ちぐはぐに共存している、そういった体質が街の風景を作っているという場所がロンドンなのだ。

4.
それで最近、イングランドの街を舞台にした二つの奇妙な映画を見た。それはデヴィッド・クローネンバーグ監督の『イースタン・プロミス』とケン・ローチ監督の『新しい世界で』である。

クローネンバーグの『イースタンプロミス』は、ロンドンに移住しているロシア移民のコミュニティを巡る寓話であり、一方では真面目な市民としてイギリスに同化したロシア人がいて、もう一方ではロシアンマフィアとなってロンドンに生きるロシア人がいる。その両方の交わりを、陰惨な暴力事件を媒介にして取り持つという話だった。

ケン・ローチの『新しい世界で』では、イギリス人の女性が失業をきっかけにして、街にいる外国移民を相手にした職業派遣業を立ち上げるという話である。派遣労働の手配を幅広くし成功に近づきながら、彼女はイギリスにいる不法移民達の生活の現実に直面するようになる。

いずれも現在あるイギリスの都市の風景を裏から眺めたときの、退廃した空気が基調として映画の色を染めている作品だ。淡々とした静かな進行で、特に劇中に音楽なども流さず、静かに退廃し腐敗している町並みについて描写する風景が続いている。特徴的な作品だが、時期的にはほぼ同時に作られたこの二つの作品は、イギリス社会の現在について共通したモチーフを描き出している。

5.
イースタンプロミス』において、ロシアから儚い夢を抱き移民してきたロシア人の女性は、現実には仕事がなくロシアンマフィアの囲われとなって売春婦をやっている。足から血を垂らしながら薬局に入ってきた十代のロシア人少女は、謎の日記を残してその場で死んでしまうが、腹の中の子供だけは生きて助かった。

ロシア人少女の死因と子供の父親と想定されるロシア人マフィアのサークルを巡って、病院の女医であるロシア系移民の子孫を演じるナオミ・ワッツが、ロシアンマフィアがロンドンの街で生息する暗部の世界へと、探索に入っていく。暴力的な商売の中で狂気を抱えている人間のセンスと、性奴隷として消費されるしかない、貧しい移民の行く宛のない世界が、そこでは密室的な狭いマフィアの隠れ家の空間で、完結して存在していた。

『新しい世界で』では、労働者派遣業を立ち上げた三十代のイギリス人女性が、労働者を手広く集めるためにポーランド系やイラン系の不法移民のコミュニティに関係するようになる。彼女は、不法移民に対して時には同情を持って深入りし、しかし仕事の不都合から給料が不払いになると、不法移民達の生活の不吉な怨念の琴線に触れてしまう。彼女は、最初は同情して仲間になったはずの不法移民から、手痛い復讐のしっぺ返しを食らうことになる。しかしそういった過酷なプロセスを通り抜けながらも、彼女は、派遣業種の一社長として、逞しく、正確な商売を営めるように成長していく。彼女が労働者派遣業の仕事を、結論としてやめることはない。

いずれもテーマになってるのは、イギリスと外国移民の関係であり、移民にも幸福な移民と不幸な移民があり、幸福な市民的生活と不幸な移民の陰の生活というのを、対照的に浮き上がらせる形で、イギリスの都市的風景の全体像として描き出だしている。

6.
偶然の一致かどうか分からないが、クローネンバーグもケンローチも、この同時期に描出しているものとは、イギリスの都市的全体像である。この全体像を敢えて直視せざるえないほどに、イギリス社会の内的飽和というのが危機に直面してるのだろうか?

日本の都市像では、まだ現象とはイギリスのレベルまで進行していない。しかし潜在的には似たような可能性を抱えている。移民としての他者性と自由の危機、そして自由の飽和とは、どうやら何かの新しい転回点を、世界の同時進行的に、我々に迫っているのかもしれない。

不法移民の開示させる他者性というのは、不気味なものである。この不気味な他者性を相手に、しかし経済活動とはどこかで連携するようになる。資本の運動は必ずや移民を吸収する。そして経済活動としてそこで対峙したときにこそ、人間間の平等と人権というのが再定義されることになるだろう。このポイントのみが、誤魔化しの利かないポイントであり、実践的なポイントなのだということが、二種類の映画を比較したときに読み取れる。クローネンバーグの場合は結論を、新しく生まれてきた赤ん坊への愛情ということで、寓話的に描いてきたロシアンマフィアの世界と同様再び幻想的に回収してしまうが、ケンローチの場合は、至って現実的な解答である。