市場と現象

1.
物事が変動している過程にとって、変化というのが現実には何処でおきているものなのか、それを意識によって知るのは難しい。難しいというかそれは不可能なことである。

身体にとって、実質的な変化とは意識の外側で起きている変動のことである。意識によって不可能だということは、主体にとって不可能だということである。つまり主体にとってそれは直接コントロールすることのできる範囲外にある。

2.
だから意識の立場から出来るのは、推測によって間接的に、たぶん実体の中では変化がこういう風に起こっているのだろうとか、こっちの方向に物事は傾いているのだろうとか、抽象的なあたりをつけながら、その都度賭けのようにして、一つ一つの行為について投企していくしかない。

身体に対しても、能力を開発するという意味での脳に対しても、市場に対しても、他者に対しても、集団に対しても、社会に対しても、それら働きかけの意味としては同じ事である。

意識と実体の間には、間接的なバリアにも似た遮蔽幕がかかっている。そこの間を隔てているものの存在として、お互いの姿を見えなくしている黒い幕がある。意識と実体の間でシグナルの往復とは、黒幕によって遮られながら、お互いの間を飛躍している。

現実的な能力とは、この間接的な推測のシグナルを、いかにして的確に当てられるか、勘と素早い判断力の往復させる能力にあるといえる。実践的な能力の実質である。

そして意識が直接にこの実体を捉まえられるということはありえない。意識が実体を直接つかんだと思った瞬間、意識は実体を裏切り始める。意識が実体を捉まえられないという事実とは、同時に主体は実体を抱きしめられないということの意味である。

3.
市場の判断についても同じ能力が意味を為している。市場における上下の現象、市場の変動とは何処で起きるのだろうか。市場は、一日のうちでそれが開始された時刻から終了する時刻にまでかけて、ずっと売り買いによって動いている。

一つ一つのミクロな売買からはじまり、それらは束となって、市場全体では巨大な動きを作っている。売買の量の比率とは、やがて一定の大きさになるとトレンドを作り出し、くねるようにして価格のラインを作り出す。この価格が上がるか下がるかの向きに応じて、市場の変動とは現象しているのだ。

市場には、価値を上げる力と下げる力が存在している。市場における上げる力のことを、相場の用語では「L」という。Lとはロングの謂いであり、それは買いのシグナルである。市場における下げる力のことは「S」という。Sとはショートの謂いである。Sとは売りのシグナルである。

値段を上げる力というのは、いわば価値を創る力のことで、積木のように値段を積み上げながら、じわじわとした努力の跡を示している。それに対して、値段を下げる力とは、市場における破壊の力にあたっている。積み上げてきた価値を崩す力を意味しており、それは長期間に渡って積み上げてきた価値としてのロングの力を、短期間によって崩してしまうことからショートの力であるということになる。

4.
今、我々がコンピューターによって市場の動きを、ネットを介して参加するような段階になって、コンピューターの画面には、この市場の刻々と上げ下げする売り買いの動きが、見守れるようになっている。

PC画面上に映し出されたグラフの微妙な動きの推移とは、見ているとそれ自体が生き物のように見える。売りの力と買いの力が刻々と市場に集中されて、それは点線グラフの上で綱引きをなしている。上げの力と下げの力で、値段の均衡を収束させるための綱引きがずっとそこでは起きている。

この綱引きの模様はネットの画面で見ていてリアルである。ドル円の市場ならば、上に引っ張る力がドルで、下に引っ張る力が円である。ドルと円が、国富の力をかけてまさに綱引きをしているのだ。一分足、五分足、三十分足、一時間足といった単位でグラフは示されているが、この大枠の幅での力の綱引きが、ティックチャートというミクロな単位の売買の変動がミミズの大群のようにうごめいてる横で、緩やかに上下している。市場とは現象であり、生き物なのだ。

かつてアダム・スミスは、市場の現象を神の力であり、神の手として擬えたものだが、市場の現象とはそれ自体自然であり生き物である。これはネットとコンピューターを介して見ると、現象の意味として更に分かりやすくなるだろう。