夏が来る手前に、市民プールで

1.
久しぶりにプールに行きたくなった。最後にプールにいったのはいつだろうか。ちょっと立ち止まって記憶を思い巡らせてみた。僕の記憶。ここ数年の。なかなかそれが出て来なかった。度忘れには理由があるというのは、かのフロイト先生の説ではあるが、別に度忘れという程のものでもない。

思い出すという行為には、そのまんまじゃ出て来ない、何か自分の今とってる体勢を変更しなければ出て来ない、ちょっとした物理的構造があるのだとしか思えない。瓶の底に残ってるジュースの果実を飲み干そうとするときは、瓶を逆さにして振ってみたり底をとんとん叩いたりするだろう。つまりそこで瓶の体勢を変えてやるのだ。入れ物を引っくり返してみたりどんと衝撃を加えてやったりガンガン叩いてやったり時にはか弱く叩いてやったり。

物を取り出す時にはそれなりの工夫がいるときがあるってことだ。記憶も同様だ。

それで僕が最後に行ったプールの記憶だ。去年は僕はプールに行ってない。これは確かだ。その前の年は?行ったとしたらそれは屋外のプールだ。屋外のプールがやってるとしたらそれは夏だ。ありえる可能性は、西武園のプールか。隣の市にある市民プールか。

2.
とにかく今日は僕はプールに行きたくなった。いやいかねばならぬというこれは切実なものだった。ここ数週間のことだが、僕は異様な肩凝りに悩まされている。最初は寝違えたのかと思っていた。寝違えたのは放っておくと僕の場合は大抵直っている。

だから深く考えないで放っておいた。しかし今回の寝違えは今までの度が違った。なんでこんなに直りが遅くなってるのか年齢的な衰退なのかどうか迷った。しかしこれだという理由がやっぱりあった。

これはデイトレードの影響である。夜中にパソコンの画面を睨み必死になってマウスを打っている。気がついたら30分、1時間、2時間、3時間と経っている。あっという間にたっているのだ。こういう生活になったから気がつくと今まで体験したことのないような異様な肩凝りが僕の身体に起きていたのだ。

ネットのデイトレードというのはお金をかけているわけだからそれは必死になっている。取引があるレベル以上の局面に入ってしまうと一時も隙が許されない。わずかな値段の落差を見つけて瞬間に打ち込まなければならない。これは人類の今までやってきた行為のパターンの中でも相当特異な種類の行動パターンである。

昔、資本主義が近代の勃興期にあったとき、工場労働というのが生まれ、あるいは工場労働の形態が海外から入ってきた。工場という狭い所に押し込まれて、そこで独特の集中的な労働行為として同じ流れ作業を長時間こなされる。ここで社会は職業病という病理の種類が発生したことを知った。

歪な労働の環境とは人間的に相応しくないとの理由で、次の段階では人々の間に啓蒙の意識と運動が起こり、労働のスタイルがあんまり歪になりすぎないようにと、人類の歴史は調整することを知った。新しい労働のパターンが生まれるときの初期にある歪な労働のスタイル、これにネットによって生まれた独特のデイトレードの行動というのも類似しているのだ。

パソコンを立ち上げてワープロの画面を打っているとき、やはりそこにはパソコン作業に独特の肩凝り、疲労感というのはあるものだが、デイトレにおける筋肉疲労というのは、それともまた種類が違うのだ。あえて似た体験といえば、2ちゃんねるに投稿を過激に打ち込んでいるときの疲労と同じものだ。

なんかすごい非人間的な連続労働を強いられた後のような疲労感か。まあ負けているときは焦りも含めて異様な非人間的な絶望感と隣合わせだ。しかしこれが大きな勝ちに繋がったときには異様な高揚感が訪れる。勝ちの高揚感で躁になってる時は疲労も吹き飛び忘れているが、その間も確実に身体は使っていて筋肉は小刻みに動き続けていたわけだから、疲労が来るのは少し時間が経った後からだ。この、遅れて来た筋肉疲労、肩凝りの存在。

3.
それでかつて体験したことのないようなしつこい肩凝り感に襲われている僕は、これを治す術は水泳しかないだろうと思い立ったわけだ。一番近所のプールで適当に泳げそうなところとは、屋外プールを持つ市とは反対側に、僕の町と隣接する市の体育館だ。

自転車で出掛けた。ゴーグルは昔使ったのがあった。部屋の片隅で埃を被ったゴーグルを拾い出して水道で洗い持っていった。自転車で20分くらいだろうか。屋内プールを所有する隣町の大きな市民体育館は田圃の中にあった。しかし結構新しい設備の充実した体育館だった。

今日は土曜日で体育館は子供達が多く、家族の付き添いでお父さんやお母さんの姿も多かった。でもまだ夏休みは始まってないわけだから助かる。これで夏休み中だったら結構市民プールは地獄のような様相になっていそうだ。

ここまで自転車で来るときに、水泳パンツは家で履いて、それは紺色で長めの短パンの水泳用だが、見掛けは普通の短パンと変わらないので、そのまま自転車で乗ってきた。自転車の籠にゴーグルを入れて、短パンのポッケには煙草を一箱とライターを入れて。
それだけで手ぶらで僕は泳ぎに来た。泳いだ後に冷たいコーラを一本飲もうと思っていたので所持金は200円に、プラスしてプールの入場料400円でやってきた。

金曜の夜にデイトレをやったときは負けた。金曜はアメリカの国が休日でニューヨーク市場はやっていなかったのに、それに気付かないで賭けていたからだ。木曜の夜は勝っていた。一晩で1万5千円稼いでいた。一日でその日に使う金は午前の11時頃にトレードから出金する。12時5分がシステムで出金のポイントになってるからだ。出金されて銀行に振り込まれてるお金をコンビニのATMで下ろしている。しかしそれは月曜から金曜のことで土曜はシステム自体が休みである。

4.
久しぶりのプールだった。屋内プールの広い空間に足を踏み入れたときはわくわくした。ようしこれで普段の意味不明の蓄積疲労を吹き飛ばすぞと思った。

プールの床に浮板が置いてあったのでそれを一つ拾ってプールに入った。久しぶりのプールの水は冷たく感じるかなと思ったがそうでもなかった。ここのプールは手前に流れる円形状の循環するプールがあって向こうに普通の四角いプールがある。ウォーミングアップだと思って最初に流れるプールのほうに入った。

浮板に手を載せてからだを浮かした。うん。いい気持ちだ。ずっと続いている肩の重みが一挙に楽になった気がした。これでクロールや背泳ぎをすれば身体は一挙にリフレッシュだ。そう考えて流れの回転に乗った次の瞬間だった。プール監視員の男性が僕に声をかけてきた。

「ぼうし被ってください」
見ると若い男性で鼻と口の間に口ひげを薄く生やしていた。
「ぼうしかぶらないと泳げないんですけど」
「えっ?ぼうし?ぼうしって幾らですか」
「450円です」
「あれっ、そんなに持ってこなかったよ。ぼうし貸してもらえます?」
「いいえ。貸すのはないんですけど」
「えーっ。どうしようかなあ。じゃあ今日は泳げないってこと?」
「はい」
「えーっ。じゃあ上がるから。お金返してもらえます?」
監視員は小柄な男の子だったが、言われたことにきょとんとした感じだった。
「お金は・・・ちょっと聞いてきますね」
彼は歩いていってプールを監視できる窓のついている管理室に入っていった。

管理室の窓からは、女の子の監視員が二人並んでプールを見ながら何か喋りあっていた。目はプールを見ているものの全然関係ないお喋りで盛り上がっているのだろうという雰囲気は、遠くから見ても感じ取ることができた。僕はプールの中で縁につかまり下から見上げるように彼らの動きを待っていた。

すると向こうから巨漢の男性がこちらに背を向けて後ろ向きに僕の掴まってる縁の場所に近づいてきた。流れるプールの中で後ろ歩きしながら僕のほうに接近してくる。

恐ろしく横に脹らんでいる巨漢男性の壁のような背中が僕に急速に接近してくるが、向こうは相棒と喋りながら動いているので全くこちらに気付いていない。しかしでかい壁のような背中でよく肥満した男性の背中である。船が海上で遭遇した巨大氷山のように白い肌の四角い壁は近づいてくると、その背中には赤い湿疹のような痣が小さく幾つか点いているのが見えた。それは生々しい壁だった。

直前の危機一髪で僕はよけた。肥満した男性はそんな僕のした行為に全く気付かないようで、相棒の男性と話しながらそのまま後ろ泳ぎで流れるプールを流れていった。肥満対策のトレーニングやってるんだろうが。やっぱ市民プールだよなあと実感した。

監視員が戻ってきた。
「いま受け付けに電話しましたから。料金返してもらっていいです」
「そうですか。どうも」
しょうがないから未練を吹っ切って僕はプールを上がった。

更衣室のロッカーに戻ってくるとやっぱりガキだらけだった。それと子供を連れた親父さんとか。父親に連れられて小さな女の子もいた。まるで休日のプールとは銭湯みたいな状況だ。ロッカーの並びの横に丸裸になった女の子が飛び出しているのが見えるが、お下げのリボンをした女の子の足の間の何もない所に縦の割れ目が入ってるのまでくっきり見えてしまった。ちくしょうやってられねえなと思った。

僕は、一人でプールにいくときの常なのだが、からだを拭くタオルとかそういうのも持っていかないで自然乾燥してからシャツを着て、乾いてきた短パンを兼ねた水泳パンツでそのまま自転車に乗って帰るのだ。出口のところに小さな体重計があった。乗ったら体重が5キロ以上痩せていたのにちょっと驚いた。これはデイトレ労働の疲労で痩せたのだろうと思ったから。運動でなくても何か充実した内的労働を自分に課していると自然にカロリーを消費して痩せるんだなと考えた。心理的な意味でもそれはアップダウンの激しい室内労働である。たった一人だけの室内でもそこは毎日天地が引っくり返る。

5.
受付のおばさんに寄ったら愛想のよいおばさんで笑いながらお金を返してくれた。体育館の外に出たら曇り空で特に暑くも寒くもないがどんよりとした空の下にむっとした空気を嗅いだ。田圃の中にある最新設備の市民体育館を僕は自転車で後にした。こんどは行きと違う道で帰った。川沿いに伝ってずっと自転車を飛ばして帰った。

家の直前にきたところで小さなスーパーに入りコーラのペットボトルを一本買ってきた。そして今僕は家でパソコンに向かいこれを打っている。肩凝りは朝起きたときよりもよくなっているがまだ完全ではない。市民プールにはこんどは来週いこうと思う。ちなみに水泳用のキャップは百円ショップでも売っているのを僕は知っている。