フォーマットとしての小説

ここ数年の一時期、僕は映画ばかり見ていた。といっても実際に映画を映画館に見に行くとそれなりに費用がかかるので殆どはDVDのレンタルを中心にして映画をよく見ていた時期が、ここ最近にあった。それは一つ一つの映画についてレビューを書くことによって映画の存在について、映像芸術一般の存立する構造について、目を見据えて分析的なことを書くためだった。映画を見てこなしていくことは、映像とイメージの一般論を自分の中で研ぎ澄ませていくこともあるが、僕がそこでやっぱり中心にして見ていたものとは、物語の構造分析の一般論だった。そういうことがわかった。

別に映画評論家になることを意識してるわけではないので、映画についてはこの程度でいいのではないかと思っていた。僕が、構造分析として切り込んでいかなければならないのは、やっぱり小説の構造分析であるには違いないと改めて思った。といっても文芸評論家を意識するわけでは決してない。僕はどちらかというと自分で小説を書くほうの人間であるから。

映画を見ながら僕が考えてきたことは、やはり映像と言葉の関係だった。僕は、小説一般の存在について、昔から、よく意識することは多いものの、小説を読むという行為については苦手とするところが多く、哲学書はよく読めてもそれと比べて小説を読むことは苦手だという人間だったのだ。若い頃も、結構長くそういう時期は続いた。小説を読むのが辛くなる時期というのは、どういう時期かというと、言葉と活字の関係について、それを意識することによって情報を読み取るための運動がやたらに重くなってしまう、情報の処理にやたら負荷がかかってしまうような状態ということなのだ。

しかしやはり、活字におけるスランプを抜け出す契機というのは、方法的な意識によって基礎付けられるものである。方法的意識とかいうと、また更に精神作業の負荷が大きくなりそうな言い方だが、それがどういう方法意識かというと、運動を運動において軽くすることができるような方法意識のことなのだ。だからそれは方法といっても、限りなく反方法にも近い、ダイナミックで動物的な動き方への気付きといったものにあたる。

昨今は「ライトノベル」というジャンルを分析することが、文学分析にとって一つの肝要な流れになったが、こういう動き、運動というのは必然性があるものであって、小説あるいは散文というジャンルが存在している意義というのは、何かの形で、それまでの重いものを軽くするという変換の運動にあるのだろう。

最近、太宰治の生誕百周年ということで、太宰治の特集がテレビで組まれているのを幾つも見かけた。それで久しぶりに太宰治の本などを取り出してみたりして、太宰について調べなおしたりしていたのだが、太宰が何故あんなにも死後において熱狂的なファンを獲得しているのかというと、やはりそれも太宰の文体の分かり易さに理由があるということだ。

近代文学の流れにおいて、幾つかの波があり、流行り廃りから、新しい文体の確立が文学として大きな足跡を残すという現象があるが、そこに見られるのは、太宰治の時のように、文体上の刷新が起こること、つまりそれまでの晦渋な文学の文体から、新しい、もっと軽くてポップな文体が出てくることが、文学史上のエポックポイントになっているのだ。

難解な文体というのは、そこに文学の示す崇高さのイメージがあると思われているから、それは難しくあっても人から読まれうるものだ。難解さという精神にとって苦痛の作業を通しても、しかしその読書的労働の先には何かの崇高さが獲得されるのだろうと想定されているから、人は敢えて難解な文学にもチャレンジする。

難しさとは文学の崇高な重さを担い、読者にもその重量を共有することを要求しているが(例えば埴谷雄高のように)、しかし現実には、時代の新しいエポックメイキングが実現される現象とは、その崇高な難解さを文学的に切断するところから生じているのだ。太宰治の文体とは、あの時代には文学としてとてもポップであり、ライトなものとして生まれたのだ。

しかし知られているように、生前の太宰にとっては、本のセールスとはそんなに恵まれたものではなく、彼は比較的若い年齢で心中によって死んだとしても、驚異的な売れ方をするようになったのは、死後の現象であった。生きているときの太宰は、その文体的軽さゆえに、逆に当時の文壇からは疎んじられた。大衆的な売れ方の支持の気配が見えたとしても、その売れ方が軽薄だという理由で、当時の文壇的性質からすれば、太宰は尚更疎んじられた。今はもう太宰の時代のような現象はありえないものにしても。村上春樹吉本ばななの登場にしても、やはり時代的な文体のライトな刷新があったから、それは以前の時代を切断する文学として現れた。

しかし、文学というジャンルの限界というのもやはりあって、文学はその本性上一程度以上はどうしても軽くなれないジャンルという構造もある。その先に軽くなろうとすれば、文学はどんどん漫画やゲームや更に動物的で幼児的なジャンルに近づかなければなるわけであって、それが一定以上を越してしまうと、単に文学としての後退ということにすぎなくなってしまう。ライトノベル分析の潮流というのもそういう意味では文学史の微妙なポイントに立っている運動的流れではあるのだけれども、文学が文学として刷新され生まれ変わるポイントというのは、構造上の刷新であり、軽量化、明晰化というところにあるのだろうということ。あんまりそこで大衆的に迎合しすぎると、逆に今度は純文学化の運動が反作用として起きてくることになる。