相場という慣習の痕跡について

1.
まだプールへは行けていない。しかしここ最近はずっと「相場」という概念について考えている。相場というものには歴史があるのだ。それは人間にとってきっと強烈な歴史ではあるのだろう。一口に資本主義というけれども、資本主義の中心にある構造とは、市場である。特にそれは単純な物の交換の市場ではなくて、株式市場のことをいう。

株式市場を中心にして資本主義の全体構造が統合されて来たのが大体19世紀後半から20世紀初頭にかけてである。即ちそれはマルクスが存命であった時期からマルクス死後しばらくの時期にかけて、現在の株式市場の原型にあたるものが整備された。

株式市場の大規模化、中心化にあたって、最初にそれは国富の全体像をそこで統握し支配力を持つものとしての、国家的経済における株式市場として、ヨーロッパにある幾つかの先進国とアメリカにおいて整備されて、完成されていった。

マルクスエンゲルスが亡命先として移り住み、研究していたのは、ロンドンの株式市場と資本主義である。最初は、国家における国富の象徴であり、支配構造としての株式市場の発達だったが、やがてそれは経済の流動として単一な国家の枠を飛び越え、世界市場としての資本主義の全体構造を持ち始める。

2.
そのとき中心になっていたのは、ロンドンの株式取引の市場と、ニューヨークの市場である。株式市場の発達を通して、金融資本の発達と、世界資本主義の形成が出来上がるようになる。

世界資本主義が明瞭な形として現れてきた頃に、株式市場は最初の大規模な破綻を迎える。即ちそれは1929年の大恐慌である。ニューヨーク株式市場の破綻を切欠にしてその影響は世界的に飛び火した。同時にその少し前に起きていた世界史的な事件とはロシア革命であった。世界資本主義の形成と最初の破綻、そしてその反作用的な形成としての共産主義運動と革命の波とは、世界の構造を作っていた。

株式市場とはどこで成立するかというと、すべて雑多で多様な個々の商品の価格の束が、最初に資本の価値として統一され、それが価格の大きさで計算可能になるとき、資本として数値的な交換基準として扱うことが可能になったときである。それら資本と資本の関係性を、抽象的に交換することを可能にした合理的体系として、株式市場と資本の証券化、抽象取引の交換というのが完成される。それらは「関係の関係」として計測された、商品と資本の抽象的交換の体系として、合理化され、投機されることによる価値の自己増殖を目的とし、競合し、スピードを増して発達した。

3.
それでは株式市場の起源となっているものとは何であろうか。それは単純な商品交換を最初に抽象化した市場であるが、今でもそれは商品先物市場として存在している投機の市場である。

commodity(商品)の先物市場とは、具体的には、大豆、コーン、金、原油などの単一商品について、その全体的で統一的な価格を求めるところから産出されるところの上下によって、価値の大きさを測り、投機の市場となしたものである。

最初に、株式市場的なものの原点と見なされる、商品の交換価値の全体的統計として、抽象化された価値の増幅によって、資本的な投機が行われるようになったのは、原始的な意味でも、前近代的な意味でも、近代の初期にあたる現象の意味でも、この商品先物市場の原理にある。

そして商品先物市場とは、今でも独立した投機の市場として、中心的な株式市場の傍らには存在し、続いている。つまり貨幣経済がまだ完全で全体化されていない段階において、全体的な富の中心となりうるのは、何か象徴的な単一商品のことであり、それは大豆や金やオイルの価格によって象徴され、貨幣の代わりを担う投機の対象とされたということである。この商品先物市場を前提として、次には株式市場が登場することになるのだ。

日本で言えば、商品先物の自然発生的な先駆けを為していた対象とは米である。日本の米相場とは、歴史的に見ると江戸時代には既に完成され存在している。江戸時代に日本人は既に、よく出来た投機の市場として米相場を持っていて、市場的投機の文化を発達させていた。株式や為替価値の時間的変動を表すグラフとして「ローソク足」という有名なグラフがあるのだが、ローソク足が発明されたのは江戸時代の米相場からだったという。

4.
それで僕も今では、このローソク足のグラフと日夜睨めっこしながら、外為の市場を見ているのである。なんというか、ヒッチコックの映画のサイコの内側を、毎日部屋にいながら体験する日々とでも言おうか。まあヒッチコックのサイコはそれなりに面白い強烈な映画なのでよしとするのだが。

株式市場の形態から更に交換が進化すると、それは金融市場の形態を生み、金融市場の国際化され全体化された形態として、外国為替の市場が出来上がった。これは交換の形態としてメタレベルの抽象性にある。商品の交換から始まって、交換される複数雑多な商品を束ねるという意味での象徴的商品交換として、大豆、金、米といった商品先物の市場で統一され、やがてそれは国富的な抽象力としての、国民通貨による株式市場として統一された。

そして資本と株式市場の運動が国家の枠を飛び越え国際的なものとなっていくと、株式市場の世界化がニューヨークやロンドン、東京の中核市場によって完成され、次には貨幣と貨幣の交換としての、金融的な国際市場が完成される。これが今ある外国為替市場の形成となっている。

貨幣にとってメタ的な抽象交換のシステムとして、外国為替の市場とは、資本の国際化と世界市場の拡大によって進歩を遂げた。外国為替の交換を発達させていったのは、戦後の国際経済の流れによるものである。

日本では敗戦した後、アメリカの指導下に資本主義の合理的な整備が為されていった。最初は日本の通貨の価値とは、固定相場制として1ドル360円として決められていた。国際的に経済が発展していく全体的流れの中で、やがてそれは変動相場制に移行する。ドルと円の力関係とはどんどん円の力が強くなっていく。変動相場の発達を受けて外貨交換のシステムというのも環境が整備されてくる。

国家にとって、変動相場制において、国富の中心として貨幣価値を決めるモメントとは、平均株価であり、アメリカではダウという。各国の平均株価の波を受けて日々為替において通貨価値も変動する。貨幣価値の力関係とバランスにおいて、貨幣と貨幣を交換することによって投機的利益を出すことを目的とする、為替市場が成立するようになった。

為替市場の起源というのも、やはりそれはロンドンの市場文化に古くはあるとはいえ、外国為替の市場とはやがて戦後経済おいて、金融資本の抽象的交換を機能させるものとして重要な地位を占めるようになった。

5.
交換の交換として、貨幣にとって最も抽象化された価値の交換体系が、外為市場として機能することになったのである。ドルと円の均衡バランスで考えれば、70年代にはもう実質的に崩れまくっていたものだったが、85年のプラザ合意によって、変動相場における価格変動の自由と自立性というのは決定的なものとなり、外為市場は独立した金融市場として認証され、頭角を現し始める。

最初に外為の取引とは、大手銀行によって為されるものであり、資本による資本のための運営として、限られた場所で行われる大口の取引であった。このとき外為市場の主体となっていたのは、大手銀行、大資本のホールディングズによる機関投資家、そして国家の中央銀行であった。

国富の価値を決定するものとして、最初にそれらは大口で高級な交換のシステムだった。しかしやがてこの外為市場は、外為市場としての自立性と自由化を進め、市場の規模と間口を拡大していくことによって、自立した採算の市場として進化していった。それまでの機関投資家中心の市場から個人投資家にも向けて市場が開放される段階を迎えることになった。そして外為市場が個人投資に解禁されたのが1998年である。このようにして現在のFX市場とは形が決定されたのだ。