受験の歴史Ⅳ

1.
受験とは、それで一つの社会的な交換形態になっている。受験というシステムを媒介にして、いつの間にか日本人はそこで一つの立派な文化体系を作り上げていた。受験制度の存在とは、現代社会において日本人の細部にまで染み込み浸透している。日本型受験システムの歴史とは結局、日本人の頭をよくしてきたものなのか悪くしてきたものなのだろうか。結果はその両方であったといえる。受験システムの存在とは日本人にとって諸刃の剣であった。

受験制度の進化とは、受験技術というものを発達させるに至る。受験技術の発達には両義的な側面がある。一方では、人間性を限りなく薄くしていく側面としての、人工的に格差としてのランキングを作り、形式的で空虚な人間の排除と区分けを機械的に生産していく側面として、精神能力の搾取的な側面がある。

もう一方では、受験技術の進化とは、対象の分析的方法として、対象を何処までも分かりやすく解体し、丸裸にさせる。勉強内容をよく対象化してマスターするための、徹底的で、容赦ない、客観的な方法がそこでは探究され編み出される。ここで学問の対象性には全く謎も秘密もなくなる。誰でも、万人にとって共通の認識と解がそこには前提されなければ、問題の形式が成立しないのだから、一つの学問についての徹底的に客観的な解法が、最大限の分かりやすさによって、そこでは追求されて、確立されるに至る。技術的に開発された分析手法として、受験メソッドの前では、すべての対象が分かりやすく、客観的に、共通の認識として、説明可能なものになる。

2.
日々、日本の受験文化が生産し続けるものとは、次から次へと、受験問題に対する新しい解法であり、もっと分かりやすく、合理的な勉強法の数々であり、毎年、それらは受験参考書の新しい本として、研究され刷新されては、市場に送り込まれ、消費される。旺文社、数研出版といった出版社から、そして大手予備校といった企業は、しのぎを削って、これら新しいより合理的で優れた受験の方法論について、開発し、市場に送り込むものである。

これらプロセスの中で、受験は難易度を増しながら、しかし勉強の為の合理的なメソッドとしては、次々とそれは明晰で完成度を増したものとして、パワーアップを続けてきた。「チャート式」というような方法論とは、単に受験の狭義の分野に限らず、対象分析の方法論としては、それ自体が方法としての充実した優秀さを備えている。チャート式的な解析の前では、いかなる難解な問題の対象さえも、すべてが丸裸にされるし、客観的に簡易化されたメソッドによって了解可能なものにされてしまうのだ。この方法論の進化するスピードとは、受験が受験産業として資本主義的競争のスピードに乗ったところから導き出される。

受験文化は方法としての受験技術を進化させる。現代日本人の持つ個々の分析能力の高さと客観的な精度が共有されていることというのは、これら受験文化の恩恵に、何らかの形で預かっている。受験戦争の存在が、これら日本人の分析的知能力を高めてきた側面というのが、一方では確実にあるのだ。チャート式といった分析手法は、文化の中で自然発生的に進化してきたものである。受験の体系をより合理化することによって売ろうという競争の中から、自ずから生長してきた方法の明晰さである。

受験文化の功と罪という意味で、現代日本人の知的能力とは、深く規定されている。受験の技術化とは、最初に大学受験という分野から端を発したとはいえ、やがてそれは日本人の文化にとってすべてに、ミクロに拡散していったのだといえる。すべては受験化されうる。現代的な人間のシステマティックな生活形態において。受験化された方法とは、物事についての分かりやすい客観化された対象を設定する。形式的な情報処理の形を作ることによって、物事をスピーディに、合理的に捌くのに役立つ。

3.
知の受験技術化された方法とは、現代人の生活の隅々にまで、それはミクロに浸透している。誰も、これら受験形式の外部には立てない。そこに機械的な情報処理の選別を見つける限り、すべては根っこにおいて、この社会全体を情報処理の体系として覆い尽くす、受験技術の体系が無意識裡に機能している。

受験によって発達した、対象分析の手法とは、それ自体では肯定的に捉えられてよい、方法的産出の所産である。日本の受験文化が、自然発生的に、無意識に生み出したこの方法的所産について、チャート式の方法論として、大枠で定義して言ってよいだろう。チャート式とは、誰にも有無を言わせない極限まで対象を解明し丸裸にすることのできる、分析的手法の総体なのだ。

受験制度の過剰に進行していった日本の現代社会において、受験とは一つの文化として定着した。予備校や受験参考書は、文化的な存在の要素を受け持つのと同時に、資本主義的な産業構造の一部としてもある。受験産業として、大手予備校は株式市場の上場企業となり、列記とした経済的影響力を持っている。

今では高校のほうが予備校の発表するデータによって影響を受けるものになっており、高校の価値を決める基準も予備校的データに依存している。受験産業は、日本の経済構造の中にしっかりと場所を占めているし、受験産業のほうが公教育の基準を実質的にはリードして決めているというような状況になっている。

4.
しかし、受験産業が利益を出せる構造というのは、大学受験の時点で大学ランキングの一覧表というのが、偏差値的計算の産出による序列の構造として毎年発表されているという基準があるからである。この大学間序列という形式的値の見せ掛けがあるから、それは資本主義的な利益の算出を可能にする、落差を持つ産業体系として機能している。受験産業を支えている根底には、このランキングを生産する見せ掛けの幻想体系があるのだ。

こういったランキングの見せ掛けが何を意味するのかというと、それは学生の卒業時点における、労働力商品としての価値、信用度にあるということにあたる。しかし、それらは本当に、形式的な見せ掛けの問題であって、人材の価値が、たとえ労働力商品としても、実質的にそんなもので決まりうるとは、現実には殆ど誰もが信用していないような事態である。

ただ、あくまでも毎年形式的な見せ掛けの産出として、ある種惰性的な儀式の営みの連続性として、そのようなデータが毎年発表され、その形式的データに基づいて、何だかよくわからないけれども、右に倣って、予備校から高校、大学、そして企業から官庁までが、日本のシステムとして連鎖的に、横に倣いながら動くという、システムの惰性的な慣習がそこには巨大な規模で定着しているのだといえる。

この見せ掛けの幻想体系とは明らかなニヒリズムには変わりないのだとしても、それがどうしても惰性的に機能してしまう構造が、そこにはあるのだ。