ロックと人格性

今月の2日に、忌野清志郎の命日とhideの命日は奇しくも同じ日に重なったものだ。しかし清志郎の体現するロックと、hideの体現しているロックとでは、世代的に、同じ日本の土壌であっても、相当の開きがある。日本の初期的ロック形態と、その成熟的な形態としてのhideを比べたときに、日本のロックが市場としても、技術的な形成としても、また人格的な形成としても、蒙ってきた変化の形態が見られるだろう。

日本の音楽業界で、ロック界という形で、それが商業的な媒体という意味でも、そしてそれより広い拡がりを含み込む層としても存在するためには、それなりに年月とプロセスを必要としている。忌野清志郎という人物だが、戦後の日本人の生活が明らかに豊かな段階へと入って、消費文化の生活形態というのが明らかになってきたところで、文化の拡がりにおける新しい層の秩序を創建していったポジションに当たる。

まず消費的な商品の波として、マスメディアを介し、新しい文化のイメージが広まった。日本にとって戦後の50年代から60年代のことである。各家庭にはラジオが一般化し、放送のチャンネルは多局化し、選択できるソースが増え、場合によっては米軍用放送のFENによって、アメリカ文化の最新情報をリアルタイムで知ることができるようになった。60年代にテレビが普及し、視覚的なイメージの面でも、映画の文化から、欧米で起こっていた新しい音楽文化の波というのは、日本も同時進行で受け取ることができるような体制が整った。

戦後の音楽文化として、まずジャズの波があり、それは進駐軍の米人達との関係から、具体的に日本人は学んでいき、ラジオとテレビの情報が一般化するようになってからは、ロックがジャズの次の世代を担う新しい革命的な文化のイメージとして入ってきた。

もはやジャズの世代のように、基地まで行ってアメリカ人に直接教わる必要はない。ジャズの文化とは、日本では植木等クレイジーキャッツのバンドを育て、加山雄三のようなアイドルスターを、エルヴィス・プレスリーの似姿として誕生させ、石原裕次郎のような、ジャズの音楽と不良的な生き方のスタイルを、新しい日本人の粋のスタイリッシュなロールモデルとして立てた。日本の、いかりや長介率いるドリフターズは米軍経由のリズム&ブルースを、日本人的な流儀で反復するものとして現れた。

これらが50年代から60年代の日本に起こったポップカルチャーだとすれば、次の世代においては、また文化のスタイルが相当に変換を為されるものとなった。それは新しい音楽としてのロックの、より幅広い解放性と自由のイメージである。ロックはまず、英米圏の情報として、ラジオやテレビや雑誌の中に紹介されるイメージとして入ってきた。しかしそのロックをいざ日本人が自分も始めようという段となると、そこには最初壁があったのだ。

ロックというのは、今までの日本の芸能文化にあった体質よりも、より自由な体制を、流通網としても、生産の体制としても必要とするからだ。ロックは、それまで日本人で幅を利かせてきた偽善的な文化や紛い物の文化とは異なるのだ。

ロックとは、命題としてそれ自体で自由な生き方でなければならない。ロックミュージシャンに為るということは、それ自体で自分も自由な生き方を実現できなければならない。そうでなければそれは本物のロックではないのだ。いつまでも日本の敗戦国的な、模造品と紛い物の文化を扮していられるような余裕も見せ掛けもそこでは通用しなかった。

それでは、東京郊外に生きる、いち若者の立場から、いざロックを始めようというとき、そこにはまだ何も手段はなかった。1951年生まれである清志郎がはじめた最初の音楽活動とは、フォークバンドをプロ志向のバンドとして立ち上げることだった。東京の西の地域、多摩地区に育った高校生としてそれは始まった。RCサクセションというバンドは、最初は当時の日本の音楽文化の流れに沿ったフォークバンドとして始まったのだ。

しかし、音楽でプロとして身を立てるというのは、当時はまだ自由な生き方を求める主体とは、衝突する部分が多かった。日本のレコード業界の、独特の偏狭で慣習的な壁がそこにはあったからだ。初期のRCサクセションは、何度もレコード会社と衝突した。解雇され、干されることが多く、喧嘩も繰り返した。

新しい自由な文化とは、日本の土壌でどのようにして可能なのか。それが清志郎のテーマだったのだ。それはそのまま清志郎の、日本の音楽の流通経路である、音楽業界への戦いとなった。RCが音楽活動のために参加したものとは、音楽資本の外部に動いていた新しい文化と人々の流れであり、それは東京の西の地域に集まってきた日本のヒッピー達の流れに参加するものだった。

当時、日本のサブカルチャーとは、現在あるものの起源的な形が新宿から西側の東京を中心して出来つつあったのだ。金にもならないようなヒッピーの流れと、当時主流だった新左翼の文化から落ち零れて来た人々の流れが、清志郎のエネルギーを吸収する母体となった。

70年代の終りにあたり、RCサクセションは根本的にメンバーを入れ替える。ヒッピー系のロック人脈だった伊藤銀次も一度ギターを努めていてが、伊藤銀次が抜けた後に古井戸から仲井戸麗一が加入することによって、より同時代的なロック色を決定的なものとした。

フォークバンドからロックバンドへ、更に言えばストーンズに範を取った原理主義的なリズム&ブルースとロックンロールのバンドに生まれる変わることによって、そこに日本人の日本語によるロック、ロックンロールの可能性というのを、最初の形として切り開いていくこととなった。日本のロックの形がそこでは原型的に決定されていくプロセスの時間性が生まれた。

しかし清志郎のロックのスタイルとは、英米のそれとは際立って異なる、日本的な独特のロールプレイを演じていたのだ。それはロッカーであるということが、同時に人格としても、道徳的に、社会的に通用しなければならないということだった。この初期の日本のロックを人格的なものとして組み立てなければならなかったという宿命において、清志郎の音楽活動とは独特なものとなったのだ。それは新しい種類のモラリズムを新しい文化において示さなければならないものとなった。

何故、日本において、新しい音楽文化のスタイルであるロックとは、そこに人格的な統合のイメージが投影されることが必要とされたのだろうか。そこに人格的なイメージを喚起するものがもしなかったなら、ロックとは日本人にとって受け入れられなかった。人格的なイメージとして照合されることによって、70年代の日本のロックとは、サザンオールスターズにしてもRCにしても、流通の経路に乗ることができたのである。

日本の市場でヒットする為の要因とは、そこではロックによって新しい人格性を示すこと、新しい人格性を発明することだった。実は、これは結構、日本の市場の独特で特殊な事態だったのだ。