(X=)JAPAN精神分析

1.
今月の3日はよく晴れた初夏のいい日だったが東京ドームに行っていた。マイミクさんがまたライブに招待してくれたからだ。こんどはX-JAPANのライブである。御蔭で噂には聞くところのエックスのライブを初めて体験することができた。

調度よい気温の心地よい風がいつまでも吹いていて止まない。五月にとって典型的な日和の夕刻だった。外はまだ明るく多くの人手が流れ途切れることを知らないように賑わっていた。後楽園の地下鉄で降りてドームに向かう。目に入る人々の群れはエックスというライブの現象を聞いていた通りに裏付けている。コスプレ大会的な祭の模様である。パンクス、メタル、ゴシック、ロリータといったヴィジュアル系の衣装で着飾った人の群れと幾つも擦れ違う。

こういう現象の意味が以前から不思議だったのだ。それはライブでありながらも集会といった意味がある。集会という意味は慣用的な用法として、政治的な集会、特に左翼的な集会の祭と多様性の意味から来ている所があるが、それが70年代頃から暴走族の集会という隠語として、特殊な意味が派生して、暴走族的集会の意味の延長上に、エックスのライブもロックの現象形態として引き継いでいる要素がある。

かつて暴走族の文化として発達した色んなスタイルが、エックスのライブにはそのまま生き残っていて継承されている。ヤンキー文化という現象形態が、70年代から日本のサブカルチャーでは発生的に続いてきた。それはサブカルチャーとしての自然現象に当たっているが、独自の根強さをもって時代的に続いてきたものである。

2.
何故ヤンキー文化とは日本で発生したのか?一億総庶民のように見える日本の国民性にあっても中にある細部を穿つ微妙な階級性の存在が、このような文化を自然発生的に生ぜしめたのかもしれないし。国家と市民にとって、自由であるという状態が、何処かで自然発生的な部族性、要するに古くから延々と続く、下位の自由にあるヤクザ的な文化とアソシエーションの流れから切り離せないところで存在しているという現実性を示しているのかもしれない。

80年代の風景として懐かしかった、黒い衣装に身を包みマスクをしたパーマ顔の女の子の姿も、ここでは再び見受けることができる。ドームの中では三塁側の席から見下ろすようにしてエックスのライブを観覧することになった。

しかし肝心のエックスの当事者たちであるが、彼らメンバーは必ずしもヤンキー文化の内部から出てきたという人達ではない。どちらかといえば彼らは中産階級の子弟として学校では優等生的な所で生きてきたという感が強い。僕らの世代では、公立の中学校に行けば、大抵ヤンキー的な不良文化の存在とは遭遇するものだったが、実際のそういったヤンキー不良たちというのは、エックスのメンバーと比べればもっと凡庸かダメな人達だったわけで、必ずしもエックスの主体になってる人達と現実の日本のヤンキー不良について等価に見ることはできない。むしろ、日本の中に現象としてあったヤンキーのイメージを、エックスは自分達のイメージを形成する過程でうまく引付けて神話的に利用できたということである。

3.
イメージの操作、情報操作のテクニカルで芸術的な作用というのは、80年代後半に登場して頭角を現したエックスの性質について、ある意味特徴的によく示している。それはリアルを超越させるヴァーチャルの次元を、イメージの売り方とイメージの作用としても、最初から意識的に取り込んでいていたバンドだったからだ。

後にこういうロックの現象の在り方とは、ヴィジュアル系という形容詞で括られて語られるようになる。美とセックスとロックを巡る妄想的想像力を、最初から意識的に活用して、美学的なイメージとして立てている領域だからだ。90年代に日本のロックとして特徴的な性質になったのは、この妄想系美意識のデカダンの世界である。

現実と妄想の区別が付かなくなるような美学的世界像を売るという意味では、後にインターネットの登場で明らかになるような、ヴァーチャリティと想像的自由の次元について、エックスの現象は先取りしていたといえる。2ちゃんねるの拡大で明らかになってくるような、現実と妄想の混交と統合というのは、エックスのようなバンドのスタイルにとっては、既に明らかなものだったということだ。そこでは現実よりもヴァーチャルなものに積極的で肯定的な価値が付与された。エックスにとってそれは80年代から自明だったポリシーである。

4.

それで僕はかの有名なエックスライブをこの眼でしかと目撃したわけだがやっぱりこれは面白かった。一階のアリーナ席はファンクラブ或いは親衛隊のメンバーで独占されている。ライブの会場である。昔はライブの最中に脱いでしまうような女の子も結構いたみたいだが。今は昔の一時期と比べたら相当穏やかなライブになってる模様である。

エックスのライブとは何が凄いのか。あの熱狂性がすごいのか。女の子達を中心にしてそこにいる者をファナティックにさせる不思議な磁力がそこには本当にあるのだろうか。圧巻だったのはコンサートでアンコールに入る前の最初のエンディングで、初期の曲である「オルガスム」というタテノリのメタル曲を延々とやるのだが、会場では「ウィアー・エックス」の大連呼がはじまり、上から眺めていると連呼のたびに人間の動きが巨大に波打っている。この「ウィアー・エックス」の語感が要するに「ハイル・ヒトラー」というのに似ているのだ。

ヘヴィメタルという音楽のジャンルにあって、それが本場のヨーロッパやアメリカでも、美学的な要素として、歴史的なファシズムの美学的装置を興奮として引き継いでる要素があるというのは一部では明らかなことである。小さな全体主義ファシズムの、東京ドームにおけるヴァーチャルで女性的な健全なる発散として、それはドーム内オルガスムの束となって、共同幻想の儀式となって発散され、排出されている。

全体主義的情念の社会的解消として、これ程合理的で健全な装置があるだろうか。ファシズムが、決して過去の一時期のものではなく、人間にとってそれは連綿と続く情念の現象形態の必然的なスタイルなのだとは、エックスのライブを見れば最もよく実証することができる。エックスのライブとは、ステージ上でやってる方でも自己のファッショ的な同一化の欲望によって起動されているだろうが、それ以上に観衆の方から、ファシズムの自然発生的な願望が投影され、女性的な引力でもって、それは熱狂的に望まれているのだ。

ファシズムは、ミクロに現象として美学的に拡散することによって、それは社会全体の安全度にとってはガス抜きとして機能する。そこでは文化の意義とは、このどうしようもなくファッショ的一丸化に向かう情念の流れを、うまく調整弁として逸らしながら、社会の外側に排出し廃棄し続けることにある。エックスのライブとはまさにそのような装置としてよく機能しているのだということが、このライブのクライマックスに近づくにつれ鮮明に理解されてくる。

しかし同時にこの東京ドーム的な閉域の限界についても見据えずにはいられない。リアルとヴァーチャルの美学的撤廃としてもエックスの音楽は機能してきたが、エックスの商業的な売り方とは、情報操作的な仕掛けとしても、メディア上の戦略論として今まで明らかなものだった。しかしこのヨシキ的な操作の企みも、彼等自身にとって、明らかな限界の壁を迎えているのは、既にこの現象から窺い知ることはできる。この情報操作の美学とは、日本でしかドメスティックに通用しない仕掛けだったのだ。

5.
首にコルセットを巻いて登場してくることも多い、超人的で自己破壊的なヨシキのドラムである。しかしヨシキのドラムソロを初めて目撃してみて分かったことは、それが思いの外に詰まらないものだったということである。何故ヨシキのドラムソロとは詰まらなかったのだろうか?ここには、ロックというものが存在している基底について、本場のもの、つまりアメリカとイギリスのものとは取り違えがあるからだろう。

ヨシキのドラムの特徴とは、それが形式に忠実なものであるということにある。ヨシキの音楽に対する思考としてこの態度とはクラシックを学んだものとしては必然的に抱く観念である。ヨシキのドラムとは、確かに異様にスピードが速い。しかしそれはただ速いだけのドラムではないのか。メンバーでギタリストのPATAの語っていた逸話では、最初にPATAがエックスのメンバーに入ってセッションを始めたとき、ヨシキのドラムとは既にやたらに数が多くてうるさいものであり、しかしその独特の叩き方についてレスペクトは持っていた。そこで奇妙なのは、曲の中で、ヨシキは必死にドラムを叩きながら、間違えたと言って一人で悔しがっている。しかし他のメンバーには、ヨシキが何処で間違えたのか全く気が付かなかったという。

ヨシキは、ドラムについてもピアノについても、全部楽譜に落として書く習慣らしいし、特にメロディーについて、手元にピアノがなくても頭に思いついた旋律をそのまま譜面に直接書けるぐらいの技術の持ち主だという。最初に存在している原理的な形式について、そこに頑なに忠実に従いながら再現するというのは、クラシックの王道的なコンセプトであるのだろう。クラシックを学ぶ人達の中で多くの層にとっては。

しかし、ロックというのは、そこでクラシックとは、原理的に異なるものなのだ。もう既成と見なされうる形式に対して、それを必ず壊すもの、そこに崩しを入れていくものというのが、ロックにおける、短いが歴史的に成立しているコンセプトである。それは他人の作った形式であるか、自分で作った形式であるかという違いは関係ない。自分のものだろうと、作ると同時に壊すという、ゼロ点に回帰させる作用が同時に生じているところがロックなのだ。

しかしヨシキの方法というのは、原理を忠実に守り抜く、スピードの中でもそれを絶対に崩すことは許されないという主義でありプライドであって、これは自分で作っている形式を同時に壊すことによって自然状態のうちに再帰させるという、ロックのコンセプトとは逆のものである。その退屈さが露骨に出ていたのが、要するにヨシキのドラムソロにおける退屈さだった。

6.
歴史的に偉大なロックドラマーの系譜というのを見ていて、例えばドラミングにおける激しさということでスタイルを打ち立てたのは、三十過ぎの年齢で他界してしまった人物だが、THE WHOのドラムだったキース・ムーンの存在があげられる。同じ激しさを表現するドラムのスタイルであっても、キース・ムーンとヨシキでは対極にあるスタイルである。そしてロックとは史的にいって、キース・ムーン的な形式の破壊性によってその後もずっと成立している精神的で芸術的なジャンルであるのだ。

ヨシキの場合は、原形式の遵守死守というのが至上命題になっているので、その中で激しさを表現しようとすれば、ただ闇雲にスピードを速くするしかなくなる。しかし、本来ロックの王道というのは、形式に対して如何に相対化するか、逸らすか、破壊するか、形式に対する破壊の美を、最も単純化されたコードの循環形式の中で見せるか、楽しむかということにある。ロックにとって本場であり故郷であるところのイギリスとアメリカにとって、このロックの意味というのは絶対的なものである。本当は、エックスの音楽とは、自分で情報操作しているほどには、世界市場では売れていない。そんなには、特に欧米の市場で受け入れられていないのだ。

エックスが進出できない理由というのは、別にトシの歌う英語が下手だからとかいう理由ではなくて、根本的にはここにあるのだろう。それはロックに対するコンセプトと主体性の違いにあるのだ。ここでヨシキの美学を、日本と同じ流儀で通用させようというのは難しいのだ。そのドメスティックな退屈さが、ライブにおけるプチファシズム的な儀式性から、音楽におけるパターンの循環から抜けれない壁を示している。

エックスにとって現在でも残っている彼らの野望とは、世界進出ということである。そしてそれは単に世界の市場に入るというだけではなくて、世界でヒットするという結果をもって、彼らの言う世界進出の野望があるのは明らかだ。しかしそれはやはり難しいと思うのだ。エックスのドメスティックな限界を見るためにも、彼らの現実のライブの模様とはその仕組みをよく示している。