派遣村にて、ある論争の時間を振り返る

正月の三日のことだが友人が車でうちに遊びに来たのでそのまま恵比寿のほうまでドライブにいった。去年できた恵比寿のnadiffアパートにいったが町の入り組んだ裏側に建てられたそのマニアのスポットみたいな新しい芸術アパートは、店舗は営業してはいるもののお客もまばらであんまりにものんびりしていた。正月の弛緩した時間帯には本当毎年何をやったらよいのかわからなくなる。nadiffは表参道の地上げにあって越してきたのだが恵比寿の陰のちょっとわかりにくい場所にアパートを丸ごと建てたのだ。一番上の四階には清澄白河から越してきたクラブが入っている。休日の前日にあたる夜はそこがオールナイトだが昼間はカフェ営業している。

友人と僕はそこで暇なランチをしていた。他にラウンジの中にお客は若い女の子が5人くらいに、女子連れの白人男性が一人だった。店員は男性一名女性一名。コーヒーを淹れたり結構本格的なパンケーキを焼いていたりと。白人男性はテーブルの上でアイブック片手に目前の女性に何かの説明をずっと英語で喋っている。この日この時間帯にこの空間ではどうやら時間はただひたすら停滞し続けるしかないみたいなので、このもやもやとした時間に穴を開けるべく僕らは場所を移動しようと思った。ちょうど今アクチャルに動いていそうな場所とは日比谷である。日比谷公園派遣村を訪ねてみることに決めた。いったら知人にも何人か会えそうである。

恵比寿的停滞の時間とそこに集う少々金銭的な豊穣も匂う若い子たちの暇でアンニュイな時間の切れ端を眺めた後に、今になってアクチャルな現前と化してきた格差社会の階級的現実・・・というイメージをあたかも現出している、かのように見える場所へと移動である。それは別に他人事の話ではないのだが、あらためてメディア的にも現実のイメージとして核を顕し固めてきている格差についてその風景を確かめてみる。

六本木方面へ車を流し溜池を通り東京の中心部の風景を抜けて日比谷へと出た。正月の東京中心部の景色は閑散としていた。呆けた様な日の光が反射していた。白い日の光は車の中にも執拗に差し込み気温は低いにしても妙に異常に暑苦しいような空間の感覚で移動していった。あんまり長くこの感覚を続けすぎると窒息でもしてきそうな感じだ。車の窓を少しだけ上に開けて走った。隙間から吹き込む外気はちょっとは気分を冷ましてくれる。でも寒くなりすぎないようにして。

日の光も低く長く伸びていて、まださして時刻も夕刻というわけでもないのに、橙色の日はもう街の空から零れ落ちていきそうに垂れ下がっていた。銀座には相応の人込みもあるものの少し離れれば閑散とした休日のオフィス街である。独特の寂しい景色だ。日比谷公園の外側につける。夕方の近さを意味づけるような風も吹いていて晴れている割には寒そうだ。服装も薄着だったので、日比谷公園から派遣村をみつけるまで歩くのがちょっと辛かった。公園の中で派遣村はすぐに見つかった。葉の落ちた木々の佇む中で、多数の大きなキノコのようにテントが出来ている一角を見つけた。大きな公園の中では、その村はほんの一部を陣取っているだけで、報道で見たよりはささやかな村だった。

くわえ煙草していたのはすぐに若いボランティアに注意された。派遣村で働いてる人々はどちらかというと年配者の協力者が多いという感じだった。若い人も働いてるがそれよりももっと年配の人達のほうが元気よく動き回っている。たぶん派遣村の時間帯でも、多く人が集合し集会や撮影などで盛り上がっている時間と、静かになっている時間に別れるのだろう。僕らが到着したのは比較的静かな時間だった。特に変わった人達の場所というわけではない。よく見れば貧しそうな身なりかもしれないが遠くから見ればわからない、そこはわりと普通の空間だった。炊き出しの準備で場所は忙しなく賑やかだった。人々はそれぞれ寛いでいた。テントには受付の所に人が集まり、列に並んで調査を受けていたり、コップに注いだ飲み物をストーブの周りで口につけていたり。

福島みずほさんがいて人々と話していた。思っていたよりも小柄な彼女だった。髪に染まった薄い金色が太陽の日に光り、彼女は紫色の厚いコートで身を包み、何やら嬉しそうな顔をしてポケットに手を突っ込み、皆との対話を楽しんでいた。湯浅さんが向こうから数人で勢いよく歩いてくるのと出会った。湯浅さんが僕の顔を知ってるともあんまり思えないのだが、しかし擦れ違うときに妙な緊張感があった。というのは、かつてNAMのMLで起こったある経緯の事があったからだ。それは01年の夏だったがNAMで、のじれん論争というのがあったのだ。湯浅誠は当時まだ、のじれんという渋谷地区の野宿者支援活動の人であり、NAMを彼に関係付けようという動きがあったのだが、僕がそこで論争を起こし波紋を呼んでしまった事件があった。

結果、湯浅さんはNAMには入らなかった。しかし後のNAMが展開していった先にある事件を考えれば、湯浅さんがNAMに立ち入らなかったのは結果的な正解であった可能性は強い。また湯浅さんは元から自立した活動家だったので、NAMになんか入っても入らなくても彼自身の活動と研究においては特に何の支障にもならなかったのだろうし。僕が口を出してしまって、結局どういう理由か定かではないが湯浅さんがNAMに入らなかったのには多少の負い目を感じていたこともあったので、彼と日比谷公園で擦れ違うときに妙な重力が生じたのである。僕は、NAMの傾向性と、湯浅さんが背景にして活動してきた傾向性は違うものでありそれは相反するのではないかと意見したのである。普段は固定したイデーで凝り固まっているか死んでいるかのようだったメーリングリストでも、僕が絡んだときこれは相当な火花をよんだ。

結果的に僕の指摘は正しかったと思う。当時の段階で、読みも分析も正当だった。しかし当時の段階で後で明らかになる傾向性の破綻について、会員たちに向けて論証的に説明するのは相当難しかった骨が折れたというのは確かだ。素朴に盲目的にNAMは何でもできるのだと盲信してる人達が、若い人にも年寄りにも組織には多かったので、そこで説明することは徒労だった。まあ今となって見れば余りに明らかに証明できる話の一つ一つだったのだが。のじれんという野宿者支援活動から発展して、湯浅さんたちは、もやいという生活確保のためのネットワークを作り、そして今の派遣村まで繋がっている。

NAMののじれん論争の焦点とは、野宿者たちにとって地域通貨のネットワークは可能であるのかどうかということから問題が出てきた。野宿者には地域通貨を実験してみる意義はあると思う。それ自体は大いに今でも可能性はあるし、当時の僕は、それなら自分が乗り込んで野宿者用の交換ネットワークを実践的に立ち上げる実験をやってもよいくらいには思っていた。野宿者には野宿者で独自の交換通貨的なネットワークが必要だろうが、しかしそれが当時NAMの持って行こうとした交換と通貨の理念に適合するか否かというのが、NAMののじれん論争の焦点だった。