踊るダメ人間

ポップシーンとは市場の欲求にとって最大公約数的なところで構成される平面である。時代に応じてそこではどのような人間像が欲望されているのかを如実に反映し、ポイントをうまく突くイメージが投じられた場合、現象としてのヒットも生むだろうし、必ずしも大きなヒットに繋がらなくともイメージの固定した支持層を社会的に生み出す。アートにとってこのように市場が反映の鏡となり、特にポップシーンの場合は市場の要求を直接的に反映させながら時代の表象として移り変わる。ポップシーンとは支持層にとってその軽薄さによって、そこだけメディア上の閉域的な作用とコントロールも生み出すのだが、それ自体は客観的な自然現象のフローとして一定のマーケットリサーチであるデータによる測定可能性も持つ。それ自体分析的で科学的な対象となりうる。

市場に反映されるのは時代的な人間のイメージである。どのような人間像が時代は要請しているのか、最もうまくこの時代で機能しうるのか、生き抜けるのか、市場では自然発生的なイメージを媒介するし、同時に出来上がった時代的な巨大イメージはこんどは市場に対するコントロールも自動的にかけるに至る。イメージの自然発生性とコントロールの自然発生性の両者をヒットシーンとしての市場機能は受け持つ。

パフュームの現象は時代の要請として、主体の同一化を解体することの梃子となり、替わりにデジタル化的な断片の束を新しい生存のスタイルとして指し出すだろう。しかし根本的にそこでヒットの要素として機能するのは、断片化し無機質化しつつも少女のイメージとセクシャリティの価値については分かりやすい了解可能性を提示しなければならない。だから人間性の分解といったところでそこでは市場的制約が必ずあるのだ。

これがヒットシーンではなく本格的なテクノであれば、もう既にそこでは専門的に追求されたジャンルの要請として人間の解体も音楽単位の解体も行くところまでいっている。ドラッグカルチャーの影響も反映したテクノシーンの音楽性は、流れてくる曲の一つ一つにとって終りも始まりも意識させないような形態となっており、そこでは人間のイメージを意識するというよりも純粋なプラトーの状態を基準にして、レイブとダンスシーンの影響によって育てられたテクノという音楽の一般形態は出来上がっている。ジャンルとしての専門的なテクノにおいて、そこでは既に人間性が完全解体されているというのは、もうずっと以前からである。

パフュームについて、もしあれ以上彼女達のイメージに解体作用かければ、それは可憐さのエロスというよりもオカルト的な表象に近づいていってしまうことだろう。少女のイメージに抽象化と機械的な分解をかけるのであるが、パフュームが今の状態よりももっと先にいこうとすれば、そこでは逆にホラー的な要素のほうを呼び覚ましてしまうのだろうし、実際そういったオカルトホラー物で少女を対象にした世界はあるのだが、そこまでいくともう市場のヒットシーンから零れ落ちてしまう、マニアックな享受の対象になり、表面上のヒットシーンではなくサブカルの消費域に落ちてしまう。

オカルト化したパフュームのイメージを、果たして市場はそれでもまだ見たいだろうか?少女のイメージに人間性の解体をかけていくと、そこでは人間性の統体にノコギリで切断をかけたようなオカルト的な表象にいきつく。人間性の分解作用にとってそれが恐怖的な表象として回帰してくることは、それもまた文学的なカテゴリーの一つではあるが、対象が少女でありエロスであるとき、文学的な系譜の長い糸を、サブカルチャーの古来からの歴史も含めて引き出してくることができる。ここで楳図かずおの図像でも出てきそうな所であるが、少女と人間性の限界的な解体という事で、パフューム系とは別の系統で、攻撃的にラディカルに追求したものの現代的ヴァージョンとして、筋肉少女帯の世界があげられることだろう。

大槻ケンヂのコンセプトを中心にして80年代から活動していたバンド、筋肉少女帯である。彼らのコンセプトの文学的な系譜を見れば、それは江戸川乱歩から夢野久作まで伝統的な怪奇小説、ホラーからエログロまで美学的に追求しているラインにある。少女とホラーとエロスを統合させたこの世界像が、現在のようにゴシックという路線で纏まって来る以前には、80年代から90年代のサブカル、バンド文化の流れがあり、特にロックやメタルのライブシーンにそれらが重なり、ヴィジュアル系と呼ばれるバンドの追っかけとして女の子がそういった現象について回るという形態が行動様式として出来上がっていた。人間性の解体をオカルトとエロスでポップ化する方向によって一定の流れを作り出したのは、筋肉少女帯をなくして語れない世界がそこにはあるのだ。

今あるゴシック−ロリータの前提を作っていた同じようなバンドの中であっても、X-JAPANなどのバンドと特に筋肉少女帯の異なっている点は、このバンドが独特のユーモアのセンスによって、ホラー的少女の世界に纏りを与えていたことによるものである。影響圏として日本のまんが文化からの流れが直接的に強いのだが、大槻ケンヂが意識して尊敬しているのはドリフターズの世界である。ドリフターズの楽曲をうまく分解しながら、それをプログレッシブロックの流れ、キングクリムゾンの影響からヨーロピアン系メタルのトレンドを合わせることによって、そこには少女的対象性の上にお笑いからメタルロックの重厚さが重なることになる。この総合力の豊かさはちょっと他のバンドには真似の出来なかったものである。

『踊るダメ人間』は90年代前半に作られていて、そこでは太宰治の世界に大槻ケンヂのアレンジがかけられている。プログレからメタルに、ゴシックとメイドの前提となる女性イメージが載せられているが、この曲のイントロをよく聞けば、曲のふりで演じられているベースラインとは、ドリフのズンドコ節(ズンズンズン、ズンズンドッコとドリフが全員集合で演じていた懐かしのあの曲)のラインにそのまんまなっていることに気づくはずだ。人間性に対して気取った建前を捨て、そこにラディカルな攻撃的分解をかければそれは自ずからホラー的な表象が出てくるだろうし、同時にダメ人間の位相というのも浮かび上がってくる。ホラーとダメ、これが本当は人間性の解体を巡る現実的な要素である。

しかしそこで解体作業を徹頭徹尾、美的に敢行していく筋肉少女帯の手付きとは、決してそこで自堕落な飽き飽きとした悪循環には陥らず、あくまでも美的でかつユーモアの優しさに繋がった世界に逃走線を引こうとしているのだ。この残酷さと優しさの共存が見えるだろうか?理解できるだろうか。それは我々の世代がドリフのテレビを見ながら培ってきたあの懐かしい残酷さと優しさの共存する世界なのだ。この優しい懐かしさを喚起させてやまないところが、結局大槻ケンヂの魅力なのだよ。