死者としてのジャズを蘇らせる稀有な方法的能力

ロックは音楽史に対して批評的な位置にあるが、それではジャズとは何だろう。ジャズの音楽史的な位置づけである。ロックはあらゆる音楽史を対象としてそれを批評的に取り込むことが出来る。変幻自在でありヌエのようなそれ自体一ジャンルだ。

元からあった音楽の要素を簡素化して形式化して取り込む。批評にとって、分かりやすさとは武器であるように、ロックの本性も元から散在していた不定形な各地の音楽的要素について、そこに形式化して解析をもって臨むことによって、最大限の分かりやすさ、音の意味の明瞭さを与える。そして単純な形式、ロックとしての分かりやすさの形式に取り込む。どこかで聞いたことのあるような馴染みのあるフレーズは、ロックに取り込まれることによってまた再び流通に乗って人々と出遭われる。人々はそこで懐かしい音を確認するとともに、それが現代社会にとって最も了解可能な共通の形式として簡単に取り出しうる事情になっていることに安心する。

身体の中に眠っていた何処かで聞いたことのあるフレーズは、そうして新たに了解可能となり人々の分かりやすい手元に落ちたのだ。商業的な生産の流通網にのってこの行為が繰り返される。眠っていた音の記憶に再び息吹を与えることは、社会的な生産の行為として病み付きになる快楽を与えることがどうやら判明した。このようにして、歴史的な音楽的要素の散在を、ロックという形式によって再び集め直し、理解しなおし、音にその生を与えなおすという試みは、快楽と商品の生産の網にのって瞬く間に、方法的に広まったのだ。世界各地に。あらゆる国境を越えて、この気持ちのよい音楽的実験の方法は自然に伝播されていった。

ロックとは、音の構成要素に対するその分かりやすさの取り込みの形式において、方法論的には批評に等しいのだ。さてそれではジャズとは何なのだろう。ジャンルとしてのジャズ。ロックの史的に一つ手前、ロックの前提になっている音楽のジャンル、音楽の方法とは、ジャズなのである。そしてジャズの前はブルースである。もっといえばそれは黒人ブルースである。アメリカの黒人たちが自然発生的にはじめた音楽的方法論のことである。

音楽史の解釈に対して、ロックが批評にあたるとすれば、ジャズとは現代思想である。ジャズが要求しているのはある種の難解さなのだ。音の構成の複雑性における乱舞である。だからジャズにおいて、その時間はロックの短さとは違う。ジャズにおいて求められる時間性とは、永遠回帰的な、終りのなさの延々とした繰り返しである。それは音の解釈に対して即効的な解決を求めない。すぐに分かるような理解を求めない。ジャズの場合は、もっと入念に、音の意味について、延々とした講釈を垂れることを由とするのだ。ロックの分かりやすさに対して、ジャズの要求とは難しさである。(あるいは安易に音で物を言わないこと。安易に示さないことである。)ジャズにとって、音楽とはそう簡単に分かられてはたまるものではない。(しかし実際にはジャズも裏から結構簡単に構造は透けてばれてしまう。)ジャズは音の存在論の位相について、もっと勿体ぶった崇高さを要求している。

現代思想というのは、歴史的な言語の関係、組み合わせに対する実験の数々であり、実験の束である。そこでは、一言で言えば済むものも、延々とした厳密な追求と証明と解釈が要求される。物事について簡単に解釈され、簡単に流通して流れ出すような安易さは要求されない。もっと言葉と思想の関係とは、冗長で重厚で崇高なものであることが、現代思想では要求されるのだ。それはそう求めるものの欲望として。欲求の傾向として。しかし批評において、そのような現代思想の難解な晦渋な面は、剥がされることになる。そのような勿体振りの仕草は、もはや批評の形式的な手付きによって軽く引っぺがされることになる。それまで難解だと思われていた音の体裁に対して、どこまでも分析的で共通了解が可能で単純化された、分かりやすい形式に、すべてが置き換えられていく運動がはじまる。それは方法としての批評の威力である。批評の繁殖力であり流通力である。資本主義の変幻自在性と魔力と生産力について、その正体を最も端的に赤裸々に分かりやすく解明をあたえることのできる力も、この批評の形式的、方法的な力である。そしてそれと同じことが、ロックとジャズの関係についてもいえるのだ。ロックとは批評であり、ジャズとは現代思想である。

それでは、ロックの後に来るジャズとはどんなものになったのだろうか?ロックという最終的な音楽の綜合形式を経た後に、どのようにしてジャズは可能かという問いを出したときに、もう一度ジャズの音的多様性、音的複雑化の波に帰る為には、どのようなやり方が相応しいのか、意味があるのかという方法について、あのジョン・ルーリーがコンセプトを作るバンド、ラウンジリザーズは最も正確に答えているのだ。80年代の実験的バンドユニットとして、ラウンジリザーズは結成され、ジャズが歴史的役割として終わった後のジャズの可能性として、ラディカルで広汎な実験を繰り返していた。

ジャンルとしてのジャズがロックの後に生き残るためには、結局様々な妥協が為されることが多かった中、ジャズの原始的な精神を失わずに、それでいて、ロックとポップミュージックの形式の後に意味のあるジャズとして、現代音楽的にジャズの形式を突き詰めていった。その躍動感の再生は独自のラフなグルーブ、そして深い覚醒感をもたらした。このようにしてジャズとはどうしても終わり切れない音楽としてその形式が可能だというのを身をもって示してくれた稀有なバンドなのである。

今ジャズとして流れているものとは、もうかつてロック以前の時代が持っていたジャズの意味とは、あらゆる意味で失われているものである。今のジャズというのは、いわば生き残るための妥協の産物なのである。それはジャズというよりもイージーリスニングであり、そうでなければ自堕落な満足で恥のように垂れ流されるものの数々が多い。しかし、時代の必然的なサイクルは終わっても、それでもまだかっこいいという意味でのジャズを実現できたものとは、本当に稀なのだ。ジョン・ルーリーのアイデアによって持続したラウンジリザーズの意味とは、普段は死んだふりした顔をしてるジャンルの稀有な再生という意味で、現代音楽の中でも特に異彩に際立っている。

トカゲのように自分自身が奇妙な顔つきをしたジョンルーリーの才能であるが知られているように彼は役者としても大変よいものである。ジャームッシュの映画からヴェンダースの映画まで、ジョンルーリーの役柄とは、彼にしか出来ない素晴らしい味を出している。のっぽでリーゼントで野蛮な目つきをしている彼の身のこなしとは、『パリ・テキサス』でナスターシャ・キンスキーの働く風俗店のバーテンのときのように、社会の多様性の孕む荒々しい火傷させるような野蛮さと市民的な安全な人間の空間との間を媒介させる通路のような景色の煌きを、演技の中でその強面の表情の中で醸し出していることだろう。ジョン・ルーリーの存在のカッコヨサに改めて敬服したい。

Lounge Lizards live 1989- BIG HEART