エドはるみの芸風に見るサブカルチャーの反照過程

テレビを見ていると最近出てきた新しい芸人で、エドはるみという人のレポートをやっていた。新しいといっても年齢的には中年の女性で、だからか「アンチエイジンガー」を自称して特徴的なコントを売り物にしている芸人である。なんでも出川哲郎と同級生というくらいでその位の年齢だが、遅咲きのブレイクという感じでテレビに出てきた人だ。

ちょっと小柄な感じなのかもしれないが、日本の女性にとって特徴的な礼儀作法の喋り方について、それを強迫神経症的に強調したように言って、礼儀作法に強制される女性特有の仕種の型というのを、くっきりと浮かび上がらせるといった抽象性が、彼女の提供する笑いの源泉になっている。何故こんなに型に強制的に嵌められているのだろう、日本の女性の運命というのはという、誰もが薄々内心では気づいている、強迫的な形式について、そこを言及的に茶化して見せることによって、何か日本の人々が同類として微妙に共感しうる可笑しみをメタ化しているのだろう。この芸が今流行っている。それはマゾヒスティックな自己憐憫も何処かでリンクした分かりやすさかもしれないが、エドはるみの芸風というのは、そこをあくまでも明るく、前向きにやり過ごすことによって成立していると言ってよい。日常的空間の中では、バスガイドとか、今はもう少なくなったのかもしれないがデパートのエレベーターガールとか、電話オペレーターといった女性職に特有の職業的形式の身体的な仕種からその喋り方まで、パロディ化している。

彼女が登場すると、最初は形式的なリズムで職業的な身のこなしを演じているかに見えて、段々そこに神経症めいた狂いがリズムに混入し、スピードが強迫的に速くなり、グルグルと踊り回るような展開をし、最後に、グー!というポーズを、ひきつった表情の中で親指を前に突き出して決めるという芸である。このグー!という時のひきつった表情と親指を出す角度というのが、起源としては何を参照しているイメージなのかといえば、ある種のギャグ漫画に特有のひきつった神経症的顔つきのスタイルであり、エドはるみの前提になっている参照項としての絵とは、要するに日本の漫画の作ったイメージなのである。

強迫神経症的な人物の顔表情ということでいえば、日本の漫画界の系譜でも、最初は恐怖漫画というジャンルに現れて、例えば最も特徴的なのは楳図かずおの作った表情画だが、恐怖漫画で培われた神経症的描写とは、やがてギャグ漫画に転用されて、神経症的人物の表情をギャグとして用いるという形式が発明されたのだと思う。この強迫神経症的ギャグ漫画のイメージというのは、結構古くから出来上がっていたもので、70年代の「がきデカ」などではもう一般化されていた、日本のサブカル的な流通範囲では共通了解になっていた。

エドはるみの親指とグー!の表情というのは、最後に決めるときに、テレビカメラに向かっても、最初からこの角度で撮ってくれという指示のもとで相当念入りにあの構図で撮ることが決められているものだろうが、唇を窄めて小さな悲劇的最後を彩るように頬を凹ませグーと決める絵は、日本のギャグ漫画もそうなのだが、もっと分かりやすく言えば、そのままムンクの叫びの顔に同じ構造を持っていることがわかる。このムンクの叫び的構図がベースになっていることに気づけば、エドはるみが公式化させた神経症的ギャグが、最も分かりやすいベースによって、無意識的にも凡庸な一般性の流れに乗って、パブリックに了解可能になっているのが見える。

このように、映像や演技のイメージについて、また文章表現への影響でもそうなのだが、暗黙に、漫画の絵を前提にして、それがリアルの人間に演じられることによって、再びリアルな共通了解として定着しているようなイメージは、探せば相当多くあると思われるのだ。リアルの世界から、抽象的に切り取られたある表現のスタイルが、絵画や写真から、漫画的に取り込まれて、そして漫画として定式化したそのイメージの構図が、もう一度リアルな人間の演技の形式として、フィードバックしてくる有様である。