よく晴れた冬の寒い日に東京ドームで

今日は寒かった。晴れていて風が強くて寒い日が一番辛いのかもしれない。マイミクさんからコンサートのチケットをもらった。東京ドームのボンジョヴィである。僕は自分の人生に賭けてボンジョヴィをよいと思ったことは一度もないのだが、ただでチケットをくれるというので、気分転換にでも、散歩がてら久しぶりに東京ドームまで行ってもよいかなと思った。よく晴れていたので散歩日和かと思ったが外に出てみて寒風に唖然。今日の冷えは本格的な冬のものであり、本当に寒いと感じさせる状態というのは、空が真空にまで達するかと見えるくらい高くて青さが冷徹で、乾燥した風が強い日ではなかろうか。散歩どころかこういう日ほど外に出て後悔する日もまたない、一番外に出たくない日の一つではあるのだが、せっかくただ見のライブだからだと後退する気持ちを吹っ切って風の中を切って歩き出す。途中で東池袋に寄る。地下鉄の駅を出たところに豊島区の中央図書館ができたので最近利用している。大きなビルの上階に豊島区の施設が入ったのだ。東池袋の界隈は都電も走ってるし散歩するには穴場で昔から好きだったのだが、ここの高架下に今月、あの有名なラーメン屋の大勝軒の本店が復活したとは聞いていた。見ると長い行列が出来ている。僕も本当は食べていきたかったが三時少し前でもう、スープが切れましたと看板が出ていた。木造の古いアパートで40年以上続いていた大勝軒は去年ビル建設のために遂に立ち退きに応じたのだが、そのとき閉店したものがまた近くの場所で新しい店舗で復活した。ファンは多いのでニュースも早くまた名物の行列も復活した。この東池袋本店の大勝軒のラーメンが日本一のラーメンだという人は多い。実は僕も全くそう思っている。復活した大勝軒本店には後日食いに来よう。以前の汚かった古い店舗と違ってこんどは高架下を使ってピカピカの新しい店舗が出来上がっていた。池袋のリブロにより早稲田文学のフリーペーパーをもらったり。東京ドームのボンジョヴィライブは5時からだった。

ボンジョヴィのライブに人の入りとは大変多い。このマスなイメージの看板のようなバンドの人気の強さを伺わせるが、そもそも僕はボンジョヴィを意識して聞いたことはない。よくテレビをつけるとかかっているのでそれでどういうバンドかは大体分かる。音楽史的に見てロックが終結しているから、そこからボンジョヴィのようなバンドが成り立つ。そもそも人にとってボンジョヴィが好きだというのは、システムがシステムの為にシステムを愛するといったようなものなのか。しかし、ここでボンジョヴィの悪口をいうことは余りにも凡庸で容易いので、あえてボンジョヴィをそれ自身において肯定しうるように見出したい。もともと僕が見た感じ、あのボーカルを演じているジョン・ボンジョヴィという男は、B52のヒロミみたいな感じと同型のキャラに見えていた。それはなんというか、ある種世渡り主義的なうまさによって開き直って芸を売っているという感じが似ていると思えたのだ。ボンジョヴィのイメージとはその大部分、売れ方においてもほぼアイドルグループに近いのだろう。日本でいうとジャニーズのようなアイドルの生産手段のシステムがあるが、しかしアメリカではまずああいうシステムは流行らないし、逆にみっとっもないと感じられる事のほうが多く、アメリカ産のアーティストというのは、アーティストである限りには、システマチックなマニュアルに頼らず、自力で立ち上がってきたという生産者のイメージをこそ愛するのは間違いないのだ。

しかし、ボンジョヴィ及びボンジョヴィ的なもののマスイメージの制覇率というのは凄いものがある。アーティストもここまで売れて人気があると何も悔いるものもないのではないかという感じだ。世の中で、女にモテルことを目指すと云うことは、即ちボンジョヴィを目指すということなのだろうか?その位疑わせるほど、このバンドのイメージの支配力、制覇力というのは凄いと見えるのだ。世の中を生きるにあたって、マスのメンバーであること、普通であることとは、ボンジョヴィのコンサートに訪れ楽しむことができるということに同義であるかのような。そんな現在的な社会の一般性、一般的娯楽から嗜好の趣味判断が、東京ドームのボンジョヴィライブからは伺い知れる。ほぼ東京ドームの会場は二階席まで一杯になるくらい人は入っている。僕が会場に入ったときもうライブは始まっていた。三塁側の一番上のほうまで上った席だが、こんなに遠くてもS席扱いだからちょっと吃驚した。遠くのステージに動くバンドのメンバーは見にくいが、要するにテレビスクリーンの画面でボンジョヴィの姿は確かめることになる。それでも会場は熱気に溢れている。普通に人々はボンジョヴィに嬉しがっている。当然のことだが。スタンディングが多かったが、僕は席に座りながらワセブンを読んでいた。柄谷大塚対談とか。ドームの会場を上から見下ろしているような感じで、東京ドームというのは観客の一体感がとても形成しやすいように出来ている造りだと思った。中心部に向けて熱狂が一丸になるようなのは、建造物の造りに由来する効果も大きい。これは武道館よりもよく計算されているのだろう。

ボンジョヴィを聞きながらワセブンを読み進める。これも中々好い体験だった。遠くのメンバーの姿は見えないので結局テレビスクリーンで確認している。テレビを見ている状態であり、しかも東京ドームで後ろの方で、どう考えてもここで音がよいとは思えない。しかし結局、周囲で興奮してる他の観客を見ていることによって、ここのコンサートの意義を体得するということになる。僕の隣の席は、ブロンドでフランス語を話してる男と日本人の姉ちゃんのカップルだったので、そっちを観察してるほうが面白かったり。誰でも知ってる有名な曲も多いので耳慣れた感じだったが、Bad medicine、という昔のヒット曲が流れた時は、この曲はエアロスミスにでもアレンジさせて歌わせたほうがずっと良い曲になるだろうと考えた。しかし、ボンジョヴィのようなマスでアイドル的なイメージを前にして、あえてここから、ロックとは何かについて考えてみることもできるのだ。すべての曲は入りやすく乗りやすいが、それがどういうパターンなのか、原型についてロックの系譜的に確かめることは容易いような基本的な構造で成り立っている。ロックの歴史は既に終焉しているが、これから先もシステムの商業的な必然性から、ロックというジャンルはほぼ永久的に再生産されるのだろうということはあるわけで、未来のジャンルとしてのロックにおいても、また欧米圏以外の、アジアや中東、アフリカといった、大きく広がる近代的な啓蒙すべき地域でも、無限の形で、やはり何らかの形で縮小再生産されたボンジョヴィ的なコピーの連鎖というのが、商業音楽の必然性として続いていくのだろう。

ボンジョヴィとは、そのような再生産としてコピーのサイクルに入った段階のロックにとって、入り口のところに現れた現象にすぎない。日本でもアジアでも他でも、ボンジョヴィ的な音楽史の再生産とは、これからほぼ無限に列を続くのだ。よいも悪いも、これは一般的システムの必然性なのだ。ボンジョヴィをボンジョヴィとして楽しんで帰ることとは、マスとしての一般人であることの必然性であり証である。この「普通さ」から、決して一個の人間は距離を置き続けられるということはない。何処かでどんなマイナーな形態であっても、我々はこのシステムの一般性とリンクして関係せざるえないのだ。この一般的なもの、そして一般的なものの持つ必然的な楽観性とは決して軽蔑しうるはずもなく、そこから遊離もできず優越を感じることさえも嘘であり、一般的なものの一般的であるが故の強さと構造的な根強さというのに、立ち向かいながら、社会の全体性を発見し、その距離の掴み方をその都度覚えていかなければならないからだ。東京ドームの三塁側二階席の上段で、ボンジョヴィをテレビスクリーンで横目に見ながら聞きながら、フリーペーパーの中の柄谷大塚対談などを読みながら、そんな事柄を、とても史的に、考えていた。