繋がりのネットワークが孕む不気味で大きな意思

インターネットによって、人が繋がろうとすることの欲望が実現化されてきたことには、目を見張るものがある。今夜、いわゆるネットラジオと呼ばれるサイトを、色々徘徊していて思ったのだが。暇人たちがそこに溢れているように見える。しかしネットが出現する以前から、今と同じように、あるいは今以上に、暇な人達とは実在したのであり、それが繋がるための手段を持っていなかったということだろう。だから、昔の暇人たちは、我々が実在しましたという記録さえ残っていないのだ。しかし記録がないからといって、そういう人達はやはりいたわけであって、今以上に辛い暇を持て余していたのだろうし、暇人の暇人としての解放が起こってしまったインターネット社会の進行とは、特に咎められるようなものでもない。それは必当然的に、テクノロジーの流れにのって出現した。

ネットラジオとは、別に団体や放送局によって担われているものだけでなく、個人によって、気楽に作られ、安易に放送されることができる。そういうサイトを見てみよう。同時間に放送中の、サイトの一覧が並んでいる。普通の人達が安易に始められるシステムがそこには出来上がっている。かつて村上龍は、90年代の終りから00年代初頭にかけて、『共生虫』というメタファーを作って小説化したのだが、そういった個人の放送が乱立する様を見て、まさに共生虫という概念について思いを巡らせた。共生虫?もしかしたらそれは矯正中とでもいいたかったのだろうか?村上龍は。サイトをクリックして巡る主体の指先に拡がる向こう側の世界とは、他者の世界である。他者といっても、あんまり奥行きがあるとも思えず、限りなく平板な世界としての他者像がそこに拡がっている。

思えば、僕がネットを家で始めたのは96年だったか。インターネットという名前が鳴り物入りで、轟いていた。この凄いメディアは、マシンは、世界を変えるとか。最初はインターネットカフェというものに行ってみた。まだ今のように何処の駅前にも、漫画喫茶と併用して乱立してあるといった状態とは程遠い、90年代の事である。渋谷とか、そういった情報量の最も集中してる街にまで足を伸ばさなければ、インターネットに触れることはできなかった。その頃は池袋にさえネットカフェはなかったから。最初のネットカフェとは、今の漫画的な雑多な空間とは違い、もっとお洒落でハイソなスポットだった。冬の夜中に、車に友達を乗せて、渋谷のネットカフェというのにまで赴いた覚えがある。初期のネットカフェであり、そこではマックPCが普通に据えられていたし、ブラウザはネットスケープしかないし、スピードはとろいし、見るべきサイトの数なんて本当になかった。最初にアナログモデムを秋葉原で僕は買った。28Kの電話線用で2万9千8百円だった。そのときはまだ家のパソコンもマックを使っていた。まだ見るべきサイトなど殆どなかった。日本語のサイトは薄いのも当然だったが、アメリカのサイトでも、その他でも。いわば、初期の段階において、インターネットには、他者がなかったのだ。だから、好きなことを垂れ流せた。変な事件は当初からあったが、特に気にはならなかった。好きなことを一方的に垂れ流す。レスも大体はわかりきったような簡単なものが多かった。ネットに出てくる人というのも、限定されていて、見る名前とは同じようなものが多かった。

今の進化したインターネットでは、事情は逆である。もはやネットには、他者しかいないのだ。安易な接続は意味を為さないし、自滅に導く。自己を表現する前に、まず他者の視線を一回鑑みなければならないような、必然的な世界となっている。いわば、正常化した世界に、プロセスとして近づいているということでもある。最初のネットとは、自己の王国としても通用したが、今のネットとは、他者の飽和である。自己の王国面して振舞えば、簡単に淘汰されるしかないような、自動的な状況が完成されている。そしてこれは人間の関係性において、より一般的な事態である。ネットは、より一般的社会へと、近づいていくことを、その内在的な目的とする。初期のモノローグなWEBサイトの状態から、掲示板−BBSの文化を経て、ネット的交流、ネット的社交、ネット的他者性というのが、徐々に形式をハッキリとさせ、そして日本では特に、最も顕著に現象した2ちゃんねる的な匿名表現のアナーキズム期を経て、ブログとグーグル的綜合の期間を通り、今の状況がある。ブログ、ラジオ、匿名掲示板と、繋がりの形態とは、機械状の安易さの流れにものり、巨大に連なる表層上の進化論的社会状況を構成している。各ブログやネットラジオで囁かれている夜毎の声というのは、この大きな進化的体系の各ブロックのようにも見える。これら小さな暇人たちの呟きが、全体としては一夜でも巨大な流れを示している。それでその潜在的には同一を向くのだろうベクトルの行先、正体が何なのかということについて、現在における観測では、常によく分からないものが残る。