宮本顕治と小林秀雄

宮本顕治が他界した。1908年生まれで山口県光市出身、最初は文芸評論家としてデビューし、その後日本共産党の中心的な勢力となった人物である。1929年に雑誌『改造』の懸賞論文で当選し、その時次点となったのが小林秀雄だったというのは、有名な逸話である。宮本顕治の論文は『敗北の文学』という芥川龍之介論だったのに対し、小林秀雄のものは『様々なる意匠』である。訃報のニュースを目にして、確か僕の部屋にも宮本顕治の本があったはずだと探したら、新日本文庫版の『敗北の文学』が出てきた。改めて目を通して見ると、これが結構面白いのだ。ふ〜ん、・・・という感じだ。

いわゆるマルクス主義的な主体性の構造論としていえば、この時、1929年当時で、基本的な枠組が出来上がっていたことが、そこで見て取れるからだ。敗北の文学とは、宮本に謂わせれば、要するに芥川龍之介の文学の事なのだが、芥川的な小ブル性、敗北性を如何にして乗り越え、超克していくのだろうかという問いを立てる所で終わっている。論考の目的は、芥川の敗北的行程を究明するものとなっている。それではその問いは乗り越えられたのだろうか。宮本にとって「敗北の文学」は21歳の時点でのマニフェストである。芥川の文学的行程を批判的に総括して乗り越えんとするものとして、宮本的指示による共産党活動への主体化が為されるという筋が、この後に一定の教程として、出来上がることになるわけだ。

主体化の構造論として、宮本の作った構造は一般的なものとなり、この論文が出た20年代末から、戦時中を経て終戦を迎え、そして60年代の主体性論争的な経緯まで含めて、大体この構造、このコードによって、共産主義的な主体化から啓蒙というスタイルは為されるものとして変わっていないだろう。それだけ宮本の提示したスタイルが一般的なものとなったというのは、宮本のものが思考の構造にとって凡庸で、わかりやすいもの、単純さとして機能し言説的な流通を果たしたからである。

これに対して、小林秀雄の論考は、宮本的なストレートな投じ方に対し、捻りを入れて相対化する、反転を演じることによってメタ的な視点を保つというものになっている。小林秀雄の当時の結論とはこういうものになっている。

私は、今日日本の文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用しすぎないために、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。

小林秀雄は1902年生まれであり、このとき27歳であったわけである。しかし小林がこの論考で、無意識的にも正確に示した、マルクス主義言説の流通に対する相対化する視点が、結局、現在の段階においても、尚更深く明らかになる事となった認識論的な核−コアな部分として、よく機能しているのを、我々は目の当たりにすることができるだろう。それはこの決定的な認識である。

世のマルクス主義文芸評論家は、こんな事実、こんな論理を、最も単純なものとして笑うかもしれない。しかし、諸君の脳中においてマルクス観念学なるものは、理論に貫かれた実践でもなく、実践に貫かれた理論でもなくなっているではないか。正に商品の一形態となって商品の魔術をふるっているではないか。商品は世を支配するとマルクス主義は語る、だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するという平凡な事実を忘れさせる力をもつのである。

これは今読んでも、見事であり、高密度な認識の結晶化である。しかし、29年の時点で、小林のこの一文の意味の重要性に気付いた者は、余りいなかったのだといえよう。もしかしたら書いた本人さえも気付いていなかった。単にそれは、29年の問題だけではなく、すぐに戦争の始まった過程を経て、戦後となり、60年代70年代に差し掛かるまで、この一文の意味がよく検討されることは少なかった。この一文は、小林の持つただのニヒリズムであり、小ブル的な独り善がりであると烙印を押されることが多かったわけである。

ここには正に商品形態のイロニーがある。商品のイロニーとは、そのまま言説と形式の、その流布の形態の、流通過程的な言説の拡がりのイロニーであった。70年より以前の段階、日本で、40年間ほどの間は、言説の流通するスタイルとして、コードとして、そしてまさにそれは「商品」としても、ある一定の時代的背景下では、小林のコードよりも宮本的なコードの方が力を持ちえた、よく広まる、よく売れたという事実がある。(宮本的コードとは、その後至る場所で顔を変えて、要するに同じものが反復されて出てくることになるもので、それがクロカンの顔−これの場合は顔無しの顔か?−だろうと山本義隆の顔だろうと、基本構造は全く変わっていないわけである。)

しかしそれに対しても、小林は本当は、別に社会の全体から見れば、常に最もよく売れ続けていたのではないかという見方もあるだろう。宮本型コードが力を持ったとしても、それは常に一部の狭い世界のことでしかなかったと見ることもできる。現在、認識論的なコードを歴史的に総括する段階にあって、小林のマニフェストは、確実な前提として組み込まれているが、これは一時期には抑圧されたこともあった認識論的な核の存在について、70年代以降に、厳密に発掘する作業が為されてきた結果、素直に、今の人々は、小林的な前提を正しさとして受け入れることができている。つまり、言説とその流通路を巡る現在的な平穏と落ち着きの裏には、相当にこの間、血生臭い歴史があったのだ。

往々にして、人間の傾向とは、宮本的な主体性のコードに陥りがちな危うさをもっており、全体的視野を失う危険は常に伴っている。宮本顕治的と小林秀雄的な対とは、認識論的な分岐点として、常にどの時代でも、誘惑として、落とし穴として、どちらに行くべきなのが正しいのかと問われ続けることは、社会的な認識構成における宿命であり、この対立性自体は、普遍的な問題構成を為している、日本の1929年的段階の事件であったのだ。この後の、宮本顕治の辿った軌跡を、伝記的な意味でも実証的な意味でも、調べてみると、これもまた面白いのだ。現代史の、常に反復されている、認識の構造と危うさの、一般的なスタイルを、宮本顕治のスタイルから、我々は両義的にも、呼び出すことができるのだろう。そしてミヤケンの亡霊とは、あらゆる形態で反復なされうる。商品という墓標の先に立ちすくむ、亡霊的な幻想の、臨界である。