それは本当にライブなのか?

ふとした事から、マイミクさんよりガンズ・アンド・ローゼズのチケットをプレゼントされた。日曜日の幕張メッセのライブである。ちょうど台風が千葉方面を直撃しているということで不安定な天気。ここ数日は憂鬱な湿った空気が続き、雨が降ったりやんだりを不規則に繰り返していたから、精神の調子まで不規則な感じで掴み所を捉えそこねていた連日だった。日曜は幕張で昼の二時に開場である。前夜、土曜の深夜にデヴィッド・リンチの映画をやっていたので見ていたら、案の定、起きるのに苦労した。昼過ぎに無理矢理目覚めて、小雨状態の中を敢えて傘は持たないほうに賭けて、駅に向かう。ホームに上がってから気付いたのだが、なんか寝ぼけたまま急いで来たら、下がサンダル履きだったことに気付いた。大丈夫かよ?ガンズのライブでサンダル履きって。というのは前夜に、mixi2ちゃんねるで初日の幕張ライブの模様をチェックしていたところ、十年以上ぶりのガンズの来日公演は大変な事になっていた模様。単に観客が興奮してモッシュ状態というだけでなく・・・(モッシュ=『モッシュとは、ライブ会場の観衆がアーティストと共に歓喜、興奮し、押し合いへし合いする様。過去、ライヴ中のモッシュで死者が出たこともあるくらい危険な行為であること。嫌がっている人はいないか周りの事も考え、あくまでも曲にあわせて、ピースフルに!』)、暴れたり、喧嘩をしていたり、会場で煙草を吸ったり酔っ払った客がいるという、単にアナーキーなライブだったというのではなく、書き込みを読んでいて笑ってしまったのは、痴漢が発生しているというところだった。

ただ、明日以降に行かれる女性の方、気を付けた方がいいです。 あたし、痴漢にあいました。 ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングルで前方へすごい勢いで 人がなだれ込み、倒れないことが不思議なくらい もみくちゃな中で、ハッと気がついたら、股間に男の手が! たまたま、なんて感じゃなく、指を前後にシャカシャカ動かして擦ってるんです! (あからさまな表現ですみません)。 もうびっくり仰天でした。 即行でその手を掴んでひっぺがして爪で引っ掻いてやりましたが 後ろから抱きかかえるように、羽交い絞め状態で腕を廻されていて、 なんとか、もがいて振り切って逃げましたが、ちょっと怖かったです。 別に男の人を煽情するようなセクシーな格好でいたわけじゃありません。 黒の袖なしタンクトップに黒の革パンでスニーカーでした。 チャイナとか着ていかなくて良かった。 普通にスカートとかできていた女性も見られましたが、 絶対スカート、もしくは短パンなどでは行かないことを お薦めします。あと前座も含めて6時間近くは立っている事になるので、 靴もヒールやサンダルなどは避けたほうが無難かも。 しかし、12000円も払って好きなアーティストを観に来ているはずなのに、 そんな時にそんな気を起こす男が紛れているなんて、 怒りというよりも正直、頭大丈夫か?と呆れました。 男っていつでも隙あらば、なんでしょうか? まぁ、ステージが素晴しかったので、ライブが終わる頃には 機嫌よくなってましたけどw。 明日以降に行かれる方も楽しんできて下さいね^^。

なんかこれはもう、往年のピストルズのライブ並みにアナーキーなライブだったのではないか?他にも、ライブの前と後では体重が4キロ減りましたとかいう書き込みもあって、むむっ、今回の来日公演はただものではないぞと前夜になって思ったのだった。しかしその恐らく戦が想定されるようなライブ会場に、なんとサンダル履きで乗り込もうというところだ。足を怪我するんじゃないだろうか、大丈夫だろうか、と不安になりつつも、面倒臭いのでそのまま電車に乗った。(本当は会場に来ている女の子から足元を見られてダサイと思われるのが一番辛かったのだが。)ガンズ・アンド・ローゼズというのは確かに面白いロックバンドだと思う。流行ったのはもう20年も前の事にあたるのだろうが、最初のオリジナルメンバーは、もうボーカルのアクセル・ローズ一人しか残っていない。アクセルの独裁者的で自分勝手な采配にメンバーは皆頭に来てやめていったという筋にあたるのだろうが、現象としてのロックを突き詰めていった所で、ある種の極点にあるのが、このバンドの存在に当たっている。ロック、特にハードロックの創生に始まって、パンクからヘヴィメタルへと、アナーキーな物の実在、ワイルドな物の実在性というのを空間的に極めていく内的傾向があって、その極点として突出して出たのが、セックスピストルズやガンズの存在だった。それでも、そんなにアナーキーな幻想ばかりを売りにしながらも、このバンドがまだ残っている、経済活動としてちゃんと機能しているということは、それなりにやるべきことは、きっちりやってきたから、今でも社会的な地位が残っているのだろうが。ピストルズの場合は、活動期間は一年で解散している。アルバム制作としては寡作なバンドであって知名度の割には、作ったアルバムは少ない。スタジオ版のオリジナルアルバムとは、三枚しかない。他にはアコースティックを据えたミニアルバム、パンクロックの為のカバーアルバムといったところ。これは要するに、バンドの決定権を握っているアクセル・ローズの完全主義にあるのだが、新アルバムと言われている物も、ずっと噂だけが先行し、その為の新しいコンセプトを謳ったツアーまでやるのだが、何故だか新アルバム自体は、ずっと発売しないのである。するとどういう現象が起きるかというと、噂だけが先行し、ライブでだけ演奏されている新曲の数々は、海賊版として出回ることになり、インターネットによって、非公式のものとして、それらは流通している。公式のリリースが全くなされないのに、ファン達は、ネットの情報として、既にガンズの新曲について殆ど知っているということになるのである。アルバムが正式に発売されたことがないのに、非公式の裏流通として、既に皆が知るものとなって共通の前提として出来上がっているというのは、現象としては、ネットの時代だから起こりえたものだろう。これを半分は、アクセルが仕掛けているのだとも思われるが、こういう手の凝った仕掛が好きなのも、またアクセルの完全主義的な性質ゆえであるのだろうし。

ロックという大枠のジャンルがあり、それは常に商業的に機能していて、幻想を商品として売り捌き続けている。ロックが社会的に流通してる由縁は、根本的にはそこにある。幻想と商品が結びついた、最も直接的で理解しやすい形式が、ロックという大枠のジャンルなのだ。ロックを一個の資本主義として、逆の側から資本主義を補完するもう一つの資本主義体系として捉えたとき、ロックの在り方の理由がよく浮かび上がるのだが、だからこのサブ・キャピタリズムの体系には、列記としたアーティストの格付けがあり、現在の商体系で言えば、たぶんそのトップはU2あたりにあり、続いてマドンナ、ストーンズポール・マッカートニーなどがあり、レッチリやガンズは、その下辺りに控えている、幻想システムのランキングである。幕張のガンズのライブでも、始終、僕はこの幻想体系の存在論について、奇妙に意識せずにはいられなかった。ガンズは何処の国を回っても、アウトロー系を象徴する統合的な空間である。そこに集まるものは、アウトローのイメージであっても、同時に巨大商品としてエスタブリッシュに、社会の一部に公然と市民的な場所を与えられた幻想に浸れる−つまりこのコンサートはセキュリティ上の補償も完全に為されている公的空間であるという事実によって、数時間を熱狂とともに快楽的に発散し、市民的に、秩序に守られながら楽しむことができる。コンサートは、最初に一時間ほど、日本のバンドの前座があって、次に、ガンズが登場するまで二時間待たされた。日本のバンドが演奏する最中は、ずっと酷い野次が飛び交っていた。ここでファンを平気で待たせるという傲慢な態度さえも、ガンズ・アンド・ローゼズという商品価値の一部になっているので、人々はこのような事態を既にこの空間の慣習として折込済みである。ロックコンサート、アナーキー空間、カオスの解放的空間という前提の系譜は、もうロックという幻想商品体系にとって、歴史的に、常識的な前提の一部になっている。アクセルは、台風を考慮して時間を遅らせたと言ってるが、それは半分は真で、もう半分は前日の初日ライブで疲れてるといったところが本音ではないのか。待たせに待たせた後、いよいよガンズの登場しそうな気配が会場に漲る。一曲目、ジャングルのイントロを、勿体ぶってゆっくり、焦らす様に弾きながらギタリストが前面に現われる。あの有名なディレイをかけた音が響き渡る。会場の興奮の強度が増してくる。(弾いてるのはナイン・インチ・ネイルズのロビン・フィンク)

僕も急いで、なるべく前列にまで出てこれを体験したいと思った。サンダル履きでもワイルドにこなす術というのは、昔からよく、新聞配達してたときも、サンダルで山登りしていたときも練習していたので、俺ならうまく帰還できるだろうと決めて、カオス状態になっているポットの中心へと進む。それでもやっぱり一番前まで出るのは無理だった。ロックが華々しく開始され、アクセルが登場した。凄まじい。覚悟してなかったら、この状態ではまず死ぬ。ガンズ=アクセル=神状態である。超高湿度のサウナ状態である。気持ちも悪い。周囲皆がヘッドバンキングしている。しかし自分だけは、どうしても、これに一体になって頭が振れない。振りたくない。頭に何かがゴツンと当たる。人が頭の上を移動しているのである。これが要するにモッシュである。最初の数曲で抜け出て、あとは後方で、半分寝ながら、ライブを観察していた。アクセルを眼近に見た。アクセルをこの眼で最も近く見たいと、客は思っているから、このライブの求心力が生じている。しかし、僕も、眼近に彼を見ようとしたが、どうしても、自分がアクセルを見た、とは思えないのだ。それでは、客達にとっての、自分は眼近に目撃したという実感とは、何処にあるのだろうか。確かに、自分のすぐ上で、テレビの画面で何度も見てきた、あのアクセルが近くで歌っている。しかしそれがやはり、テレビの中のアクセルであって、パブリックイメージとしてのアクセル以外の何物でもない。それ以上のアクセルが見えたという体験ではない。今時の大型ライブ会場では、真ん中のステージ以外に、横にはテレビモニターの大型スクリーンが取り付けてあるから、いま眼の前で見ている、生のアクセルと、同時的に、巨大モニターに映し出されるアクセルと、交互に見ることができる。MTVのようなテレビの中で今まで見てきたアクセル、パソコンの画面で、youtubeで見ていたアクセル、そして現実に、いま眼の前でそれを歌っているアクセル、そのどれもが、やはり同じものにしか感じられない。つまり眼の前の現前として歌っているアクセルのイメージとは、何処でも体験されないのだ。何処の角度から見たら、そうでなくて、既に我々の身体と脳裏に刷り込まれているイメージ以外の、彼の姿を体験できるだろうかと、会場の中で、色々角度を変えて、僕は場所を移動し見てみようとした。VIP関係者の見る場所、セキュリティフェンスの向こう側の視点にも近づけたので、そこで歌ってる姿を裏から見るようにしても、見てみた。やっぱり、そこで見ても、所謂雲の上のスーパースターとしてテレビの中で、パブリックイメージで流通する元の姿も、凡庸で、普通の、兄ちゃん、おっさんが、息を切らしながら一所懸命に歌っているという姿を確認するまでだ。

リアルなアクセルとは何処にいるのか?それを求めて、尤もそれを求めること自体が明らかにイリュージョンであるのだが、ライブ会場の一万人近い観客は皆集まっている。しかしそこで、生身のアクセル、生身のガンズメンバーということは、単に凡庸な人の姿であるということにすぎない。つまり、何れの場所でも、固有名としてのアクセルには出会えない。そして、彼が凡庸であるということを確認する、スターのイメージを、凡庸さのイメージに再回収することによって、別に現実を発見しうるというわけでも全くない。そこに感じられているのは、現実ではなく、単に象徴的なイメージの置き換えでしかないわけだ。やっぱり近くで見ると云う事が、必ずしも、その対象を、よく見ると云う事には、繋がらないということである。どんな近くでアクセルの顔を拝もうと、会場の一番後ろから、バンドの全体を眺めているときも、出会われているアクセルの姿とは、何も変化がない。ここで、特に真のアクセルと出会えたのだと、イマジネーションしてる方が、そこで主観の構造に独特のマスターベーションを行っていると云う事は、明らかに見えて、実際、そういう想いの作業に夢中になっている女の子の姿もたくさん目撃した。ロックとは、幻想を振りまく。幻想を商品として、上から与える。この幻想は、不可欠で不可避の幻想の数々である。我々は、嘘でもいいから、常に、定期的に、その享受を必要としている。そしてロックの商品体系について云えてる事は、文学や映画、思想の商品体系に生じていることと、やはり大差はないのだろう。改めてそんなことを考えた。アウトローの幻想が、パブリックに場所を持つことのできる、ささやかな幻想の放出する機能としての、幕張メッセであり、あの機械的な鉄筋建築の張り巡らされた体系の街だった。そこでは、象徴と想像にだけ埋めつくされて、現実界には、決して気がつかれ得ないのか?ということも別になくて、アウトローロックのライブ会場には、妙な隙間に垣間見る現実界の割れ目とは、妙に頓馬で、かわいらしいところに、発見されるものでもあるのだ。

本当はライブの会場で、感触として分かるものとは、現前の無意味さではないだろうか。現前の幻想が、むしろその現場で肩透かしを食う体験の方が、体験としては現実的なものである。観客は、誰も演奏について実像を見てはいない。ただ既に出来上がっていたイメージを、そこで確認はしている。観客が実際に体験しているのは、他の観客が幻想に酔って興奮している有様である。他の観客の興奮を見ながら、自分もその興奮に感染し参加する。中央で演じられているバンドの姿とは、別に高性能の虚像であっても何の不思議もない。それでは音の良さを会場では体験できるか?別に途中で間違えるはずもない上手なバンドの演奏とは、CDを超大音量で聞いているのと特別な差異もない。自分たちがモッシュに混じって絞った汗とは、隣の観客達によって喚起されたものであって、中央のバンドとの絶対的な距離感と虚像性の方が、確実なものである。ライブ会場の現実とは、観客によって観客が触発されている。ステージのイメージは、それが直ちにテレビのイメージであっても、変わりがない。つまりそこでは、絶対的な距離感と透明な壁の存在があるに係わらず(ピンク・フロイドはそれを「THE WALL」と呼んだが)、一緒にいるんだと思うことの共同幻想が軸になって成立している空間である。ここで、一緒にいるとは、実際に一緒にいるし、その空気の息吹を感じ取り共有しているにしても、規制の距離によって上と下はお互いに制御されている。しかしそれでもライブが一個の最終的な幻想として、強烈に価値を帯びる、幻想の堅牢さを最後の段階まで決定不可能にする、奇妙な偶然性の期待値によって生まれている。ライブに敢えて臨む事とは最終的には望まれている。だから、ライブとは一個の信仰のことなのだ。そこでその都度に体験されているものの正体とは、実像ではなくて、信仰の共同的なヴィジョンである。