そこには循環があるという事に、人々が早く気付くこと

時代的なサイクルの中で、社会運動というのも、何かのサイクルとして存在している。しかし、運動が何かの間違いを孕んでいるとき、どのようにして社会の人々はそれに気付くのだろうか。そこに何かの誤りが含まれているとき、大抵の人はすぐには気が付かない。それが誤りだとわかるまでには、大抵の場合、幾らかの時間がかかるのだ。前回の左翼運動の時代も、同じ事情だった。そこから約30年近い時代をおいて、今また新しいサイクルが始まりつつあるように見える。しかしこの社会的な新しいサイクルにしても、やはり昔と同じ間違いを繰り返しつつあるのだという事が、次第に了解されつつもある。こんな記事をブログで見つけた。こういった現象は早晩、もう少し裾野を広げることだろう。

■人生の歯車
その言葉を受けた彼女は、なんとかユニオンに相談した。すると、なんとかユニオンのメンバーが20名ほど会社に押し掛け、「無断欠勤くらいで解雇できない、法的には21日間連続して無断欠勤した場合だけ解雇できるのだ、労働基準法違反だ!」と息巻いたそうだ。なんともけったいな現象だなあと思う。・・・

遅刻したり休む際に連絡を入れることが、そんなに大変なことなんだろうか。その努力すらも放棄して、権利だけを主張して、力づくでアルバイトを継続しても、けっきょく自分のためにならないのではないだろうか。なんとかユニオンも、集団で押し掛け、彼女の力になってあげたと誇らしい気持ちになっているのだろうが、それは自己満足にすぎないのではないだろうか。というのは、なんとかユニオンは、彼女の人生の全てにおいて責任を請け負ってくれるわけではない。この瞬間の”権利獲得”に浮かれるのはけっこうだが、そのことが本当に彼女の将来のためになると私は思えない。何とかユニオンは、果たして彼女の将来のことまで心配してくれているのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20070621/1182401991

一人の女性の解雇事件を巡って、ユニオンが押しかけて、団体交渉した。そのユニオンとは、最近出てきた所謂フリーター系のものであって、非正規雇用者を専門に繋いでいるものである。こういった労働の層が争議を可能にできるというのは、最近になって顕著に出てきた傾向である。しかし、そういった争議行為の内容というのは、実質どんなものなのだろうか。この記事でも書かれているように、それがどのような状態だったのか、想像するに難くない光景だと思う。

以前では、労働争議の場合、正規雇用非正規雇用では、争議の有無を巡ってもやはり待遇は分かれていた。バイトの雇用は、今までの場合、争議の対象外とされたのだ。バイトは、労働を巡る責任関係からも免れている分、自由であるが、同時に雇用上において不安定であるという条件は、前提になっていた。しかし、現在の労働問題の捉え方とは、バイトであっても、それなりに雇用を保証すべき必然性があるという立場が大きくなり、それ専門のユニオンというのも作られるようになった。しかしこのような、新しい繋がりの波には、昔からあった誤りの構造もまた同時に、無媒介に巻き込みつつあるという現実もあるようだ。上記のような情けない争議の内容は、これから暫く頻発して現象することだろう。

グッドウィルのような大手人材派遣が、アルバイト労務者をピンハネする実態がわかるにつけ、フリーター系でも下の立場から、上の賃金を決める構造に対して圧力をかけてやる必要があるのは、わかる。そういうところは、金銭の流れている構造を明瞭にしながら、ピンハネ、要するに搾取といってもよいが、最大限なされないように金の流通経路をオープンにしていく必要はあるだろう。そういった時代的な大前提をすべて認めたうえで敢えて言うのだが。

ただid:kazetabiさんの意見で違うなと思ったところは、彼女はこれからも同じ種類の人々と、ずっと同じように生きていく、それで別に彼女の人生が損なわれていることもないということではないだろうか。彼女は必ずしもこの世の中に生きるにあって、別に不幸ではないのだ。もし損なわれているのなら、それは最初からそうなのであって、別に彼女自身の性質が新たに変わるわけでもない。そもそも左翼が存在しうる最大の理由は、そこには資本主義に還元されない人間関係と交流があるからであって、そこに仲間達との交通があるから、そのようなユニオンは存在しうるのであり、それこそが個別の存在理由になっている。彼女がいい加減な退社になったとしても、友人関係を失ったわけではなく、むしろそういう関係の方を事件によって強化したことでしょう。無責任であることも、そういう場所の存在理由になっている。そしてマルクスが、図らずも明かしたように、最大の左翼の存在理由として、それが個々人にとっての新たな交通関係を生産することであり、社会に底辺的、下方流動的な交通を開くことだとしたら、そんなユニオンであっても、その必要条件は果たしているということになるわけであって。それはそれで彼らの世界は完結していて、別に彼女の人生は損失をうけないでしょう。ただそういう人々と馴れ合いながら、同じような人生を続けるだけのことである。会社の方には、それで迷惑がかかったのだろうけれど。

昔から、運動系の争議というのは、現実には禄でもないものが多かった。一番いい例は、大学における団交の光景である。早稲田でも法政でも、あいいうものは幾らでも見てきたが、実際やってることとは禄でもなかった。担当の教官を吊るし上げにして、周りに集まってきている学生をはじめとした連中は、要するに、そこにかこつけてお祭り騒ぎの状態である。60年代、70年代と大昔から、学生運動とか呼ばれるものの中には、そういう下らなさを孕んでいたが、80年代、90年代でも、学生団交の残っている大学の光景であっても、その光景の辛さ、情けなさというのは、ずっとそのまま、カルト的に存続した。「運動」とは、それがひとサイクル前のものと、やはり同じ間違いを繰り返し始めたのではないかと思う。今また、これまでとは少々別の形式で、非正規の労働雇用関係を通じて、労働運動のようなものが復活しつつある状態にある。しかし、前回の左翼運動のピークの時代に、何故それが退廃し、退潮し、人々がシラケていったのかという事情を、考えてみるべきではないだろうか。そこには確実に、内部崩壊に至るだけの必然性があったのだから。

左翼がエアポケットのように、日本の社会から表面上姿を消した時代があった。80年代前後の状況であったが、その理由は、70年代に左翼陣営自体が、内ゲバをはじめとして陰惨な現象を巻き込み、末期症状化し、人々の支持を失い、一般的な人々の関心が薄れていったからである。70年代の後期から80年代にかけて生じた、この政治的無関心の状況とは、シラケの時代と呼ばれた。そしてこの時代の若者をさす言葉とはシラケ世代ともいう。シラケ世代はまた別の側面からは、新人類などという呼ばれ方もしたわけだったが、83年に思想書として異例のベストセラーを出した浅田彰は、当時、現象としてのシラケという在り方を、必然性として肯定すべきだと言った。その後浅田彰が、どのように考えを修正していったかという経緯はあるにせよ。当時は、そこまで続いた「左翼」について、一回カッコに括るべきだという作業は必然化されたのだ。

戦後に左翼運動の波が来て、60年代にピークを迎え、それが退潮していく段階で、なぜ左翼運動がダメだったのかというのには、しっかりとした理由、必然性が確実にあったのだ。その行き過ぎた波を抑えていくためには、それなりの長い時間がかかったのだといえる。しかし、それで左翼の構造とは、根本的に何か変わったということでもないのだ。以前と比べたら比較的に非暴力になったとか、変わったポイントも幾つか挙げられるとしても大概に、大枠の構造においては、情念の構造から敵の作り方から虚構性からして、別に殆ど変わってないのだ。歴史と時代の経緯から、何か学んだということも、実際はなかった。殆どは健忘症的な有様で、動物的にそれは復活してきているだけである。だから肝要な事実とはこういうことだ。

左翼は別に、社会を変えない。場合によっては、今より社会を悪くする。そしてそれには構造的で原理的な理由も見出されうる。社会システムとは、内的に必然的な理由から改善され変革されていくポイントというのは確実にあるのだが、しかしそれは左翼的な理由とは、また別のモメントによって、社会というのは、現実的に変更を受けていくものだ。

左翼という立場とは、本来常に、相対的なものである。本当はそれが相対的な実体に過ぎないのに、しかし左翼自体を絶対視することから勘違いが生まれる。妙な幻想が生じる。左翼であることを至上命令とするとか、そういう事を言いたがる輩というのは、大抵の場合は知識人だが、それ自身が病気なのだ。個人的な病気に根を持つ主張であるが故に、マイナーに信者を集めたとしても、それ自身が社会の中で実質的な力を持つようなことには決して至らない。一方、左翼が社会の中で発生しうるメカニズムについては、必然性はある。毎回必ず、社会の何パーセントかは必ず左翼人口といったものを構成するだろう。それが所謂ラウド・マイノリティといった類のものであって、うるさいが故に多く見えるが現実には極少数ということはあっても。しかしそれも組成上の割合の話である。部分的な話であって、社会の全体構造とは、必ず別のところで動いているものであることを見ないと見失うものがある。社会とは決して「意識」で動いているものではない。

社会が変わる、いい方向に変わると云う事は、それが現実的に動く時、それは別に左翼とは関係ないのだ。「左翼的意識」といったものとは全然関係ないところで、システムというのは、本当に変わるときには変わりうるものだろう。いい意味でも悪い意味でも、変化するのは、意識によってというよりも、システム構造の技術と物質的生産関係のレベルによって導かれる。そして意識とは、それら生産関係の原因というよりも、結果である側面の方が、常に強い。システム自体の全体運動からすれば、現実に「山が動く」とき、それとは関係ないところで、システムの無意識から機械状の連鎖とは常に動き続けている。現象として左翼のレベルが上がったり下がったりすることとは、社会循環としての大きな、時代的なサイクルの中にあるだけのことである。それ自体はだから、表面的現象の一部なのであり、社会が本当に変わりうるときに、原動力とは、また別のところにあるのだと考えるべきである。