空白の80年代という砂漠を埋めた音楽

今日昼のテレビを見ていたら、パリス・ヒルトンというセレブ?とかいう種類のアメリカ人だが、それが無免許運転で捕まって刑務所に入れられ、金の力で出たり入ったりしているが、その所謂芸能ニュースというのが、アメリカの視聴率でどの程度に支配力のあるものかという話をしていた。セレブ?celebrityの略なのか。celebrationとか、そういう語と派生関係にある。こういう物の謂われ方が、いつ頃から定着したものであるのか、昔からある言い方なのか知らないが、昔だったら、こういうのを何と謂ったのだろう。一昔前だったら、スーパースターとかいう言い方があった。昔からある言い方で、ブルジョワというのは、もっと大まかな階級的実在を示す言葉で、要するにヨーロッパで、貴族と庶民の中間にある富裕な市民層のことをいったわけで、それがcelebとかになると、もっと極限的に限定された有名人のことであって、単に金持ちというのではなく、何よりも強烈に個性的な実在でなければならないということになるのだろう。

パリス・ヒルトンとはヒルトンホテルの創業者の令嬢で、個性的であるというか、目立ちたがり屋が功を奏してか否か、今の社会的注目があるのだろうが、celebとかいう形容詞で謂われる人々の元祖は、ロスを中心にして何人かいるようで、歌手のブリトニーなんとかとか、なんかわけのわかんない名前の若い女性が何人かいて、それでその中に、なんとかリッチーとかいう、アフリカ系か白人との混血かあるいはインド系みたいな顔立ちの女の子が出てきたのだが、この人はあのライオネル・リッチーの娘(養女)であるらしい。

ソウルシンガーとしてのライオネル・リッチーがソロで活躍していたのは、80年代にあたっているのだろうが、ライオネル・リッチーとはもともと、70年代の黒人ソウルバンド、コモドアーズのメンバーだった人で、最初のディスコブームに乗って人気に火がつき、当時のアース・ウインド&ファイアークール&ザ・ギャングなどと並んで活躍したグループである。

youtubeを眺めていると、こういった80年代に商業的な流通関係をベースにして切り開かれた、音楽の種類がたくさん並んでいるのを見つけることができるので、思わず懐かしく、ついつい見入ってしまうものだ。

ライオネル・リッチーのコモドアーズだが、黒人のソウルというジャンルが続いていた、その最終的な世代ともいえるのだろうが、ソウルからその遺産がディスコというジャンルに吸収されてしまう直前で、ソウルのエッセンスというか正統性を、最も凝縮された形で維持していた、最終的にそこから歴史的に濾過されて出てきた、抽象物というか純粋体のようなものとして、コモドアーズのバラードを捉えることができるのだろう。

コモドアーズといえば、やっぱりこの曲である。*1
Commodores - Sail On

70年代の終りから80年代にかけて展開した、商業的な音楽の形態とは、ディスコに並んで、あるいはディスコの後を静かに埋めるものとしてAOR−adult oriented rockというジャンルが生じて流行ったものだ。それはある意味、空虚化した世界を抽象的に表現した音のスタイルともいえるが、政治や過剰な観念とはもう全く切り離された形で、抽象的に癒しの世界を、個人の内面的な世界を、静けさと安らぎの世界を埋めていくものとして、AORは現われ、商品としてよく洗練を受け、それは時代的な現象としても、要請としてもよく機能し、とてもヒットしたものだ。

AORの形式は、同時的に日本でも展開され、日本人アーティストの形式としてもよく広まった。竹内まりやとか山下達郎とか、新種の湘南サウンドとか、AORの持っていたある種の空気、ある種の間隔性(espacement)、ある種の暗黙性(implicity)というのが、しっとりとしたお洒落な形式として、またある種の無害性として、音楽になり、よく流行り、そのイメージは時代を代表するような空気のあり方となった。

音楽における山下達郎的なものと同時的に登場してきたのが、文学では片岡義男だったりして、何故だか村上春樹もちょうどその時期に世代的な間隔として出てきたものであるが、AORとは、時代的に特徴的な意味を担わされた必然性のあるスタイルとして、今となってはその時期の文化、80年代文化について、抽象的な把握をすることができるのだろう。youtubeでもAORがたくさん並んでいる。ルパート・ホルムズとか、エア・サプライとか、JDサウザーとか、クリストファー・クロスとか、カーラ・ボノフとかボビー・コールドウェルとか、本当にそれは沢山あったわけだが。

*1:しかし、このビデオの中のライオネル・リッチーのイメージが、果たしてキモイというのか、渋いというのか、ちょっと判別は付きかねますね。