自然科学から考え直す

人文系の思想としてよく出てくるのは、曖昧模糊な概念だが、それらが本当の、意味のある概念なのか、現実的には一体どの程度までに妥当性、有効性のあるものなのか、検証するためには、大体、それを自然科学系の真実のモジュールと照らし合わせることによって、まず確かめるべきであるはずだ。それが最も確実に知り得るための、常套的な手段になる。

なんか最近はそんな事を考えていて、図書館でも自然科学系の文献を漁っていて、といってもこの分野については、ずっと僕はサボってきたわけでもあって、一から自然科学の現在からその起源まで学びなおすために、基礎的な文献も吸収しようと思って、雑誌のニュートンなんかのバックナンバーを、図書館から何冊も借りてきて眺めている様な具合である。

ニュートンの様な雑誌を改めて読んでみると相当愉しめるのだが、僕はもともと自然科学系が本来好きな性質であったはずなのだが、中学から高校と、学校で全然勉強しなかったので、おのずと文系的なコースの中に参入されてしまったのだ。子供の頃に学研の科学と学習という購読雑誌があったが、僕は圧倒的に科学派の少年で、あの図像の豊かに折り込まれた説明文のページが大好きで、日がなそれを眺めていて飽きなかったものだ。雑誌ニュートンを読んでいると、ページの構成が似ているので、その頃の感覚を思い出す。

自然科学系の真実によって、普段ぼんやりと考えている、無意識的な想念や漠然とした思考の概念について、基礎付けなおしてみるという作業は、それ自体で脳の働きを癒していくような効果があると思う。自分の窮屈に持て余してきた無意識的な実在について、改めて意味を、自然科学的な確実さの枠組みにおいて、捉え直してみる。これをやっていると、もう取り留めなく想念が流れていくという感じだ。

自然科学系の思考を総体的に捉えてみるとき、大体、20世紀のアインシュタインによる物理学的世界観の革命を中心にして、その前後を明らかにして辿るというストーリーの本が多い。アインシュタイン相対性理論の最初のイントロダクションとしての、特殊相対性理論を発表したのが1905年である。この前後において、科学を根拠にした認識論的な世界観というのは大きく変化を遂げる。もちろんその少し以前には、生物学におけるダーウィンの登場もあるのだが、ダーウィンなどによって示されてきた現実的な世界像へ近づく傾向を、本質的に、物理学の方法で、数学的な基礎付けにおいて証明したのだが、1905年のアインシュタインの実績だったといえる。

現代思想とか云われるものが曖昧模糊に浸透した時代が、つい最近にもあり、それは曖昧に拡散していった挙句に、もう何処にいったのかわからない、曖昧な正体とは自然に空中分解し、消滅もしていったのであるが、80年代を中心にしてあそこで言われていた様な、様々な意匠の凝らされた概念の数々も、その真偽を証明するには、それが自然科学の系譜的な体系の中でいえば、何に相当するものかを確かめていけば、その概念が本物だったのか否かというのを、実証できるものだろう。

例えば、雑誌ニュートンで、記憶のしくみを特集した号がある。人間的な記憶のメカニズムと格闘するとき、幾つかの手掛かりが、思想的にもあったわけである。記憶とトラウマの関係から、記憶と精神分析から、あるいは精神主義的に記憶を乗り越えていく行動主義とか、記憶を動物的に発散させるための想像性(萌え)とか、記憶をテーマにした思考や、治療の方法論だけでも、いろいろありうる。記憶を最も確実に基礎付けようと思ったら、それはやっぱり脳論の立場から、脳の物質的な、器官的な機能によって導かれているものとして、記憶の働きを解明することになるわけであって、そのような脳科学の立場は現在アクチュアルなものとして現われている。

記憶について、精神分析的なトラウマ分析によってアプローチするのか、物質的で器官的、そして化学的な反応の交換過程としてアプローチするのか、有効性の観点からいっても、ケースによって立場が分かれる。しかし行動主義や精神主義的な論法によって、あるいは精神主義をその実裏返しただけの身体主義的論説によって、この問題が正確にどうにかなるということは、やはりありえず、脳と記憶の働きを客体として相対化して見たときの、機能の在り方によって、治療する立場にしても、分析する立場にしても、そこを把握していくしかないものである。

記憶の働きを機能させているのは、ニューロン神経細胞)であり、ニューロンを繋ぐものはシナプスである。シナプスを介してニューロンの間では、電気信号の伝達があり、電気信号とは化学物質の投げ渡しによって、常に隙間を飛び越えている。記憶が可塑的であるのは、脳の物質的過程の働きにおいて可塑的なのであり、記憶が不安を伴うとき、記憶自体がそこをどう再構築して進むのか、不安定要素を変形しうるのかとか、みな物質的傾向としての解があるのだ。記憶にとって感情とは何なのかとか、暗記と記憶のメカニズムは何処に差異を持つのかとか。記憶には、長期記憶と短期記憶に分かれる。また記憶と意識の関係で言えば、顕在記憶と潜在記憶に分かれる、言葉で表現できるかどうかで分けると、陳述記憶と非陳述記憶というようになる。

記憶について哲学的な解明を試みた本には、例えばベルグソンの『物質と記憶』とかドゥルーズの『差異と反復』、そしてフッサールの『内的時間意識の現象学』などがあるわけだが、ベルグソンドゥルーズも、自ら脳と記憶の関係を探り出すとき、明らかに当時あった脳論、生命科学のレベルに則ってそれを書いており、メタファーを作り、語っているわけだ。哲学的な思惟として切り取られてくるときは、元の自然科学的な実証概念とは、一回カッコに括られた上で、文学的にも隠喩としても展開されなおしているので、そこにある分かり辛さを捉え直すには、もう一度、自然科学としての脳論のうちに、それら概念を投げ返してやることによって、言われていた概念の起源とは何なのか、把握しなおしてみるべきものである。そのようにしなければ、実際、哲学思想の表面的な概念とは、その意味も起源も認識しづらいはずだ。

フロイトが、精神分析学を構築する過程でも、そこで前提にされていたのは、当時の生物科学の情報であって、科学的心理学草稿に見られるように、脳の物質的過程、ニューロンの働きから、精神的情動の働きを、科学的に基礎付けるという作業が為されている。フロイトの当時よりも、もう脳科学自体が、大きく進歩しているはずであり、改めて、現在の脳科学の最前線と、もう一度対応を試みなければ、精神分析上の解明も、やはり不手際な概念の空転を防ぐことはできないのだろうし。