松本人志の『大日本人』−吉本式喜劇からアルトー式残酷劇まで

松本人志の第一回監督作品『大日本人』を見てきた。前評判の怪しい前触れを察知して、もしかして本当に面白いのかもと微妙な胸騒ぎをもって、公開初日に早速見てしまった。近所のシネコンのレイトで見たのだが客の入りは多いほうだったと思う。客層は若い人間が多かった。そして映画の方だが、確かにこれは何かが凄いのだ。初監督作品でいきなりカンヌでかかるというのも多分すごいことなのだろうとは思うが、テレビのインタビューで北野武松本人志について、淡々とではあるがやはりその監督能力は認めるという発言をしていたのも気になっていた。

まず大日本人というタイトル、そのテーマであるが、これは字義上のイメージから連想されるように、潜在的に右翼的感性のセンスが入っているという事実はある。この映画の成功によって、新しい右翼的センスというのが、また一般的に浸透することを助長するものになるということは、やはりあるのかもしれない。想像されるのは、何か場末の場所で、安っぽいホテルの中やゲームセンターの中などで、大日本人の映画がバックグラウンドミュージックのように延々と反復され流れている中を、人々が忙しなく行きかっているような、そんなこれからの光景である。日本に現われる怪獣を退治するために巨大に変身した松本の姿は、プロレスラーの様にパンツをはいて裸で、レスラーかあるいはシュワルツネガーもどきに膨らませた筋肉の体には、龍の刺青が入っていて、都市を荒らしている怪獣とウルトラマンもどきの闘争を繰り返している。そんな映像が、都会の中でも田舎でも、ケーブルテレビの中からも、サブリミナル効果のように、カルトムーヴィーのように流れ続けている。そんな新しい日本の風景である。日本を守る巨人の名前は大日本人という。

この映画が潜在的な新しい右翼的センス、ナショナリズムと国防的な軍事意識的センスを折り込むものとして、まず松本作品を、新しいタイプの危険なセンスとして、左翼的な糾弾論調で批判する言説もこれから多数出てきそうなのも目に見える事態ではあるが、確かに映画としては奇妙な完成度に達している松本人志作品について、敢えて擁護しうるラインとは何なのかということについて考えてみる。

まずこの作品がよくカンヌでかけられたなという事情もあるだろう。芸術的な評価基準には相当厳しい基準を維持してきている公然の世界的な舞台としてのカンヌで、しかも04年には敢えて例外的な乱暴さを打ってまでマイケル・ムーアの『華氏911』にグランプリを贈ったカンヌでである、そこで明らかにサブリミナルな右派的メッセージの篭っている松本人志作品を受け入れているというのは、何かちょっとボタンの掛け違っている感もあるのだが、おそらく芸術の審査基準として左派的基準の伝統的に強いのだろうカンヌで、そういった慣例性を通過してまでも尚、松本人志作品が堂々と現われてしまったという目の前の事実について、どう反応したらよいのだろうか。

確かに凡庸に、田舎的な右翼的感性でありナショナリズムであるが、それらをカッコに括っても、それでも松本人志作品は奇妙な魅力を発散しているということにあるのだろう。映画は、我々に既に馴染のある、テレビで紹介されている松本人志の持つ独特のお笑いのセンスについて、それをそのまま映画化したらこうなるのかというものである。

松本的センスという事だが、それはつまりナンセンスの言語ゲームとしての文学ゲームのルールを、大日本人という謎の記号に向けて、何重にも張り巡らしていく。大日本人とは何か?という問いの形式を何重にも畳み掛けていくことの中から、漠然とした大−日本人のイメージを観客は次第に了解していく。こういった、ナンセンスとセンスの微妙な隙間を上手く擦り抜けていきながら、新しいイメージの発見に近づいていく進行の方法は、安部公房の『箱男』の手法に同じものである。

松本の影響関係からいって、こういった絶妙のナンセンスのセンス、言語と記号の関係を脱臼させていく快いドライブ感のセンスとは、ある種のサブカル的な産物を経由しているもの、ある種のナンセンス漫画から来るセンスや、また大阪的お笑いの一部には昔からあるセンスの賜物なのだろう。松本は自然発生的にナンセンス文学の正確な方法論を、コメディのセンスとして身につけている。それは自然体でもって、安部公房ルイス・キャロルの持っていた手法と酷似しているのだ。こういった天然の、野生の思考の逞しさの凄さ、強さ、そして正確さ、厳密さというのによって、松本作品を見ていて圧倒されるのだ。おそらく特に意識的な修行もせずに、彼が天然に生きてきた自然体のセンスが、そのまま高度な文学的感性として完成されていたのだ。

松本の住む荒れ果てた感もある寂しい一軒家には防獣相談所の掛札が出ている。松本は日本で伝統的に続く大日本人という家系の寂しい没落しつつある継承者に当たっている。日本の都会にはよく怪獣が出現して暴れるのだが、その度に彼の一族は大日本人に変身して怪獣退治をしてきたのだという伝統を受け継ぐものである。

大日本人の伝統芸は、一部では世間に嫌われている。日本を密かに守っているにかかわらず、大日本人は本当に必要なのか?とその存続が問われている。大日本人はテレビの深夜枠に小さな番組ももっていて、彼の怪獣退治はテレビでも公に放送されている。大日本人はそこそこの収入で生きている。ある種のあんまり売れない芸能人と同じ身分であり、彼のマネージャー役として登場するのがUAである。

松本人志は1963年生まれであるが、この映画には、彼の生い立ちで出会った原体験に当たるのだろう、様々な日本の怪獣映画、特撮映画のパロディといったものが折り込まれている。秋葉原や新宿副都心を舞台にして、電流を体に流すことによって巨大化した大日本人と変梃りんな怪物達との闘争シーンが演じられるが、それらはウルトラマンの時のパロディでもあるのだろうし、そのイメージは、他にも日本に独自に存在した幾つかの特撮物、大魔神ジャイアントロボの面影を、思い出させるものである。大日本人の使命とは、芸能的活動も兼ねてはいるものの、基本は国防なのだ。怪獣を退治して日本の街を守るということの中に、大日本人大日本人たることの根拠というのが見出されている。しかし彼の活動とは決して派手なものではありえず、もはや落ちぶれた、斜陽のイメージの中に肩身狭く、恥ずかしそうに生きるものである。

結局、怪獣の中には、やがて北朝鮮から送られた天誅の使者を思わせるような、赤鬼の怪物が出てきて、そして最後に出てくるのが、アメリカ産のウルトラマンファミリーのようなもので、最後は、消極的で怖じ気づいたような大日本人の手を取り、一緒に、というよりも強引な協力関係によって赤鬼退治をするのだが、これがまた吉本新喜劇を過激にパロディ化したような演出で、露骨に暴力的センスを身に受けて発散させる、徹底的な容赦ない残酷劇を、お笑いの様相の元に演じることになるのだ。最後に発散された、この残忍性、見事な残酷劇の有様は、凄まじいといえば凄まじいのだが、−正確にはその残忍さはアメリカのもので、大日本人はただ吃驚して目撃しているだけなのだが−この最後の充溢した闘争シーンの緊張感は、やはり映画としては高度なものを作り出したのだと思う。

右翼的なセンスをベースにした、留保なき残酷劇が、喜劇の様相の元でさり気なく折り込まれている。この劇の構成を巡る高度な頭脳性というのが、単に表面的な右派的イメージというのを、もう簡単に突き抜けてしまうほどに、絶妙の芸術的センスとして、カンヌの人々を唸らせたのだろう。やはり松本人志の能力というのは、本物だったのだ。しかし一作目でこれだけ凄い、面白い映画を作ってしまうと、この先はまともな映画を作れるのかというのが、逆に疑われてしまうという感じだ。たけしの場合は、一作目の、その男凶暴につきが、中途半端なもので満ちていたが故に、次から本格的な映画的完成に近づいていくことが出来たような気がするのだが、一作目からこれだけ凄いものを作ってしまうと、逆に松本人志の映画監督としての先行きのほうが、心配されやしないのだろうか。とにかく、大日本人の面白さと完成度の高さには、ちょっと吃驚したのだ。