オリヴァー・ストーン、映画、メディア、ジャーナリズム、

数年前に大学を卒業し映画を撮るために現在奮闘している友人がいるのだが、以前、彼に2ちゃんねるの話について相談していたところ、それならオリヴァー・ストーンの『トーク・レディオ』という映画見てくださいよ、と勧められた事があった。調べてみると、88年に公開されてる作品だが、教えて貰った頃はまだ借りにくい状況で、古いレンタルショップではビデオで残っていたのを見つけたものの今まで見そびれてしまった。それが最近になってDVD化されたみたいで蔦屋に並んでいるのを発見したので、以前の話を思い出し見てみる。

世の中、ビデオの時代からDVD主流の時代に移行している過程なのであるが、実は研究価値のありそうな映画について、何故だかDVDのレンタル化が遅れている作品が結構あるものだ。例えば、エクソシストの3とかは、まだDVDでレンタルされていない。調べようと思ったら、結構入手するのが大変である。エクソシストというシリーズの映画は、テーマからいっても相当面白いし、映画史的な価値からしても重要な位置にあると思うのだが、3を見たくて探したところ現在手に入らないことがわかり、一番最近に撮られたエクソシスト・ビギニングというのを代わりに見たところ、これがしょうもない駄作だったので頭にきた。例えば、黒沢清を見ていても、この人の前提にしてるのは、深くインスパイアされているのは、過去にエクソシストで与えられた体験なんだろうなとは、前回の叫なんかを見ても強く感じるのもので、やっぱり70年代に一大センセーションを巻き起こして撮られた一連のエクソシストのシリーズ(3までだが)如何に重要な意味を孕んでいるのかとは、思いを馳せるものである。

他には、レンタルビデオの時代からDVDの時代に移行するに当たって起きた特別な事情とは、ある種のマイナーな名画については、DVDを発売はするものの、レンタルには置かないという方針も取られているみたいだ。例えばタルコフスキーの映画は、重要な何本かの映画も、DVD発売はされているものの、レンタル用の対象としては出ていなかったりする。ノスタルジアサクリファイスもストーカーも、今ではレンタルで見られない状況なのだ、どうしても借りたければ、古いビデオも残しているレンタル屋にいって、昔のレンタルビデオで残っているのを借りて見るしかないという状況である。あるいはBSなどではたまにかかるので、それを録画するかだ。

それで、オリヴァー・ストーンの『トーク・レディオ』の方だが、見てみたところ、これはとても出来のよい作品とは思えなかった。むしろ興味は、こういう映画ばかりを撮っているオリヴァー・ストーンという人物の全体像の方へ、見ながら赴いたものだ。当たり外れの多い映画監督だと思う。むしろ映画としてはこれは全体的にダメだと斬って捨てている人もいることだろう。僕も大して彼の映画を見ているわけではないのだが、それでもこれは良いと思える心に残る作品は何本かあったのだ。はじめて見たのは、『プラトーン』が劇場公開されたときで、友人達4、5人くらいで80年代に見に行ったのだが、この時は相当皆で感激した覚えがあるのだ。プラトーンアカデミー賞をとったので、それで日本でもオリヴァー・ストーンという名前が紹介されはじめた頃であった。その前に彼は『ミッドナイト・エキスプレス』の脚本を書いている。監督はアラン・パーカーの映画だったが、これは僕は高校二年の時に新宿の名画座で見て相当面白いと思ったものだ。しかし、プラトーンの時に、オリヴァー・ストーンという名前に対して相当な期待値を持ったものの、その後に公開された映画について、やはりこちら側の期待を裏切るような体験が多かったので、それで興味は失せたのだろう。

映画の価値として、ストーンの価値を語る人は余りいないだろう。この人の価値とはジャーナリズム的な次元にあると考えられる。実際そのようなものとして通っている。映画的価値として何故オリヴァー・ストーンはダメなのだろうか。まずこの人は、人物もイメージも、本当はよく見ていないというのがわかるからだろう。出てくる登場人物は類型的に了解可能であるような人物造形が多く、同時に描き出されるイメージもこの類型的な了解しやすさで、映画を回転させていく。何故そんなに性急に、彼にとって物語を速く回転させる必要があるのか?回転の速さに戸惑いながら思わずそんな問いも見ている最中に何度も起きる。しかし逆に、もともと立ち止まって、物をよく見ないということが、彼が今まで生き延びてきた事のコツだからではないかという気もするのだ。

オリヴァー・ストーン監督とは1946年生まれであるが、まさにアメリカにあった社会運動の時代を、おそらく最も裕福で特権的だった白人階級の立場から生きてきた人物である。まさにベトナム戦争が彼の青春時代にぶつかっているのだが、彼は志願兵としてベトナム戦争に参加している。同世代としては徴兵逃れをしてきた、ジョージ・ブッシュビル・クリントンはえらい違いである。そんなひ弱なハンパ者連中は尻目にして、オリヴァー・ストーンは今までやってきたのだ。気合の入り方、根性がちょっと違うとでもいうのだろうか。同じアメリカ人の王道をいくものとしても。学生運動があり、反戦運動があり、ドラッグがあり、ヒッピーやサイケデリックがあり、ロックがありという激動の時代に、その中心に身を置いてきたような白人的なエリートである。

彼の持つジャーナリズム的意識は、すべてこの時代的刻印を受けているものであり、それを最も雄弁に、時代を伝えるものとして、時代の生き残りとして語っているものである。だから彼の作る作品が、映画としては陳腐で面白くはなくても、常にそれをジャーナリスティックな声として受け止めてくれる、同時代的な随伴者のマジョリティは常に着いてくるのだ。何をやっても彼は、ベトナムイージー・ライダー、そしてビートルズ革命の代弁者の声として送り届けられることになる。

僕は決して見ている方ではないのだが、彼の作品で面白いと思ったものといえば、プラトーンの他には『ウォール街』とかである。ドアーズはもう見ていてダメダメな映画だったし、ナチュラル・ボーン・キラーズは借りてきて最後まで見なかった。もしかして最後まで見たら、実は面白かったかもしれないが。今はちょうど、ストーンが03年に完成したフィデル・カストロドキュメンタリー映画コマンダンテ』の日本公開が始まったところであるみたいだ。この映画はアメリカでは上映が禁止されたらしいが、これは僕も見てみたいなという好奇心はおきている。

トーク・レディオという作品だが、ストーンの駄作一連の中には入るのだろうと思うが、友人がこれを推薦してくれたので、何故この作品か?ということについて考えてみた。80年代のアメリカを舞台にしてるが、有名ラジオ番組のDJの話である。リスナーと電話で双方向に対話しながら進める、過激な内容も多く含むその番組は、人気を得ていた。リスナーの生の声、生の訴えについて、機転のよく効く敏腕な喋り手であるDJが、手際よく裁いていくその手腕に、いい意味でも悪い意味でも注目が集まっていた。電話は生の声をストレートに受けるというのが主旨であり、売りなので、中にはDJに脅迫紛いの声というのも、番組には入ってくる。しかしDJのポリシーとプライドは、それらを逃げないで、正面から対峙するというものであった。この旺盛で勇気あるDJの男について、その生い立ちが回想シーンとして入る。この男の生い立ちは、やはりオリヴァー・ストーン自身の生い立ちとも重なる、裕福な白人階級で、若い時分に文化的な革命の波を、政治でも、性でも、ドラッグでも、みな掻い潜って来ている。彼にとって、ラジオ番組のポリシーとは、かつて存在した、そして80年代には失われつつあった、革命的でリベラルなスピリットであった。

もしこの映画の設定が、ネット社会として明らかになった状況、そして2ちゃんねる的な情報の攻防戦争と交わるところがあるとすれば、下から起きてくる誹謗中傷の雨に、そこにカットを入れずにそのまま伝え続ける、メディアという社会的媒体が、社会の中の声を、無媒介に直接的に反映させるということをポリシーとして持ったときに、それが結果的にどのようなものになるのかという行く末を、描き出そうとしているという事に当たるのだろうか。80年代の公共ラジオのような媒体では、単に変人のディスクジョッキーの、硬派なポリシーの暴走というだけで、本来は幾らでも、生の声に見せかけるだけで編集権もカットも操作可能な状況なのだから、これが現在のネット社会の情報流通の無媒介性と比較して語れるかといったら、それはやっぱり相当の無理があるだろう。

この硬派なる暴走するDJがこの先どうなるのか?というと、結局DJは、頭のイカレタ保守的な白人の暴漢に、不意を打たれて銃殺されることになる。それは要するに、映画イージーライダーの時と同じ締め括り方、同じ結論が与えられるといった構造である。要するに、オリヴァー・ストーンにとって、出来事の構図とは、精神性の構造論とは、60年代のときと80年代の時と全く同じであった、進歩しなかったというに等しいのだろう。この辺の凡庸さが、やっぱりオリヴァー・ストーンは詰まらないと思わせる要因であり、元凶であり構造なのだろう。

しかしそれでは、どうすればオリヴァー・ストーンの世界とは、それでも面白くなれるのだろうか。オリヴァーストーンの世界に外部の光明を指し込ませることのできる力とは何なのだろうか。どうすれば彼の世界観とは救われうるのだろうか。オリヴァーストーンの描く世界像の鼻持ちならなさというのは、アメリカによって搾取された裏側を題材にし、覗きにいっているとしても、やはりそれが常に、再びアメリカ的白人の優越感として跳ね返ってくるという循環を形成しているに過ぎないといったニオイにあるのではないか。

結果的にアメリカ的白人の優位を確認している、あるいはそこに取り縋っている、しかし世界の現状を横に見るに、もうそんなものは客観的にも明らかに失落していることは、アメリカの一部白人階級以外には、誰の目にとっても自明の事実なのに。オリヴァーストーン自身の内的な堂々巡りの構造を切開するものが、何なのかというのは、まだよく明瞭ではない。しかし確実にそれがあるということは、本人も含めて誰でももはや予感している事実であり、アメリカという象徴的イメージを巡る、20世紀的亀裂と防衛機制の心的メカニズムを、身を以って世界的なイメージとして引き摺っている、ある種のモンスターの死にゆく軌跡というのが、そのままオリヴァー・ストーン的なジャーナリズムの宿命ではないかと見えるものだ。オリヴァーストーンにとって、この先到来するはずの外部とは、そのままアメリカそのものにとっての外部となることだろう。