路地と記憶

中上健次の作品を群として語るとき、よく「路地」という言葉がキーワードとなって語られているのだが、路地という概念、あるいはイメージは、昨今の時代的問題に当て嵌めて考えてみたとき、割合明瞭にそれが至る所で問題の形式として表れているのを見ることはできるのだろうと思う。2000年代に入ってから幾つかの都市開発的な問題、環境管理的な問題が浮上してきている。01年にはそれでまず、早大の地下部室撤去を巡る紛争を見ただろう。01年のこの問題を皮切りにして、再開発、環境管理というのが、時代的な問題設定の中でキーワードにして回っていくことになる。早大地下部室の紛争の内容とは、思想的な論壇に反映され、様々な角度から概念的に論じられることになった。当時、早大で運動の連携の模様とは、空間解放ネットワークという名称で呼ばれた。ここから触発されたかのごとくに、次に下北沢の再開発を巡って、地域的な住人の運動、また都市の再開発を巡る是非の問題点が論じられる機会は多くなり、論争的な舞台にも取り上げられた。

大学で地下部室の撤去で失われたもの、そして下北沢の再開発で撤去された小さな商店の町並みということで、それらを総じて路地的なものという観点から捉えることができるだろう。そして路地の消滅を巡る問題である。要するに、路地(性)とは何かといえば、自然発生的に、巣穴のように、時間をかけて不特定多数の出入りによって形成された、交通空間のことである。それはそのまま不特定な交流の空間であり、商いの空間であった。この自然発生する巣穴的な領域とは、失われた後に改めて作ろうとしても再現できるものではなく、設計図のようなものを元にして説明しうる空間ではなかったわけだ。自然発生的な多様性の痕跡がそこには塗りこまれている。意識的というよりも無意識的に出来上がった安定性を独特の空気として有していたというわけだ。このような空間の存在を指して、中上健次的な路地なのだといえる。そして路地とは、事あるごとに何かの切欠で、我々は消失せざるえない宿命にあるといえる。路地とは、常に残さなければならないと考える人は、こういった反対運動の群れにも加わるのだろうが、時代の移り変わり、節目のようなポイントにおいて、路地的なものを常にその都度失っているというのが、むしろ普通の人間社会の宿命であるともいえる。路地を失うような体験とは、むしろ我々にとっては、その都度の運命のようなもので、大抵の場合、それを失っても別に我々は命まで失うわけではなく、そこに居住を持っていたものは、別の場所への移転が公的に指示されるし、場合によっては移転に伴う金銭的な保障もなされる。別にそれが必ず、不幸に繋がるというわけではない。中にはそれで得をする人もいる。今は築地が消滅するというので、それが次の時代的なる路地的問題の焦点となっているだろう。だからといって別に、路地的なものの消失が宣告された場所で、その都度反対を立ち上げることに、すべて意味がないというわけではない。路地自体を失うことの物理的な喪失よりも、むしろそこで反対運動によって、新たに人の連携が強まるということのほうが、そこに集う人々にとっては本質的なことなのだろう。路地的なもの自体よりも、人々の連帯感とその都度再発見されうる交通の多様性である。

中上健次の作品にとって、路地とは内在性の記憶である。しかし中上作品の登場人物たちは、やはりその都度、路地を失い、奪われ続けている。失った路地=失った内在性への憧憬というのが、中上が物語を立ち上げるときの原動力になっている。だからもし路地が失われなければ、地域が共同体的に外からの干渉を受けなければ、中上の物語自体が最初から起動しないわけであって、むしろ路地をその都度失うという体験こそが、そこでは必然的であり運命なのだ。この運命なしには、どんな新しい精神の力動も、生まれいずることはなかった。坂口安吾は、日本文化私観において、京都や奈良の寺なんて別に、米軍の空襲で焼けてもよかったという故のことをいっている。平等院法隆寺も焼けようがどうなろうが、それでも人間というのは、必要とあらば勝手に生きるものであり、実際これまでの文化といわれてるものだって、そのように何度も喪失を経験しながら、その都度の実質的な必要に応じてのみ、勝手に乗り越えてきた軌跡なのだと考えている。早稲田の地下室でも下北沢の路地でも、無ければないで、我々は勝手に生きるのだ。そしてまた新しい発生的な交流地を形成しては、そしてまた失うことだろう。それを繰り返していく。

インターネットの場所的性質についても同じことが見出される。たとえば、ネットの中で人が自然発生的な交流を作り出す場所は、掲示板だったりする。ネットの掲示板の存在には、もはやそれなりの歴史的な生成の跡を見出すことができる。特にそれが最も複雑に、多様に巣穴のような展開を為した場所とは、2ちゃんねるでもあるのだろうが、だからといって、2ちゃんねるを失ったら、我々にとってネットの中でそんなに重要なものが失われるのかといったら、別にそんなことはないと思う。2ちゃんねるのようなものを一つとっても、人間の社会が新たに遭遇したwebという生態環境にとって、やはり路地的な自然発生の性質を見ることができる。そして2ちゃんねるのユーザーには、それぞれの思い入れ、内在性が、既にそこには根を張って存在しているのだ。2ちゃんねるにおける、各板の存在が既に、路地的である。2ちゃんねるを保守しようとする人々の擁護する論点とは、そういうところに集約されている。しかし、2ちゃんねるを、そこで起きた数多くの問題性のゆえに、撤去したとしても、別にそんなに大きな問題でありうるのだろうか?なくなればまた、同様の類似空間が別の場所で発生するまでである。そこがまた規模が大きくなりすぎて、問題の処理に困るようになれば、一つずつ、そのような空間は撤去されていく。ただ2ちゃんねる的な慣習性を持続させうる場所というのは、ネットの中にミクロに拡散されて、それ自体はだらだらと続いていくのだろうと予測される、それまでの話である。だからそれはいつ閉鎖してもかまわない。実体は単純な話である。