ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』

ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』において、内在的な生とは、翻訳の中で失われたものを探すという心の態勢において、失われているはずの欠如を追うという関係性の在り方によって、その復活を待つという試みによって示されている。しかしそのような欠如とは本来存在していなかったものかもしれないし、翻訳の中で失われたとは、本人がそう思い込んでいるだけの錯覚による幻を追っているのかもしれない。しかし欠如しているものを追い求めるというスタイルが、差異を見分けることが難しいような平坦な場所で、本来の生成、本来の内在性の欠如して見下ろす影として、ロマンスの幻影を、主体の側から世界に投影することを可能にしている。『ロスト・イン・トランスレーション』とは、そのように存在しないかもしれない本来性の影を追い求めるスタイルによって、時間の澱みの中からロマンスの実体を浮かび上がらせようという、女性映画監督の試みとなっている。

舞台は日本、東京、新宿のホテルを中心にして起きている。アメリカ人の俳優が、酒のコマーシャルの仕事で日本を訪れている。それなりに知名度のある俳優であり、彼の滞在する新宿のホテルでは、観光客から声をかけられる。熟練した中年俳優である男は、ジャーナリストを志し日本で取材をしている若いアメリカ人女性と、微妙な知り合いとなる。年は二倍近く違う二人だが、二人の間には奇妙にお互いについての好奇心が生まれている。東京の繁華街が描写される中で、英語で交わされる二人の会話であるが、二人には殆ど理解できない外国語としての日本語が洪水する中で、よく二人のコミュニケーションは中断され、宙吊りにされる。気持ちを伝えるためには、表現に形式を与えなければならないが、メッセージを投じるたびに、メッセージの形式が反転して上手く届かない。投じたサインの、もどかしい移動を見ているにつけ、実ははじめからそのメッセージには届けるべき内容があったのか、それも疑わしいものとなってしまう。

翻訳の最中で、失われること・・・しかし本当は、はじめからメッセージの内容がそこにあるのかも疑わしい。年の離れた二人の男女の中にあるのは、何か繋がりたいという願望である。言葉のわからない土地で、何によって人は繋がるのか。お互いの故郷の国の思い出によってか。コミュニケーションがアソシエーションになって現実化するためには、二人の間に共通する形式を編み出さなければならない。何も積極的に共有するものも持たない二人であるのだが、繋がりたいという願望だけは共有している。もどかしさの中で失われ、また復活し見出され、という繰り返しが何度か続くのだが、外国人の滞在期間は終りに近づいている。限られた時間の中でコミュニケーションを実現しなければならないという前提が、二人の関係を浮き上がらせるための強制的な磁場を作り出している。それは新宿の雑踏の中で。外国人の街の中で、二人は共有する言語の記憶を発見する。

ロマンスとは何か、ロマンスが成立する条件とは何かを巡って、ソフィア・コッポラ監督は、形式的に明らかにしている。ロマンスが成立するための場所的な条件とは、そこが当事者となる主体にとって、失われたものを自覚させる外国の土地であり、外国語の流れる環境であること。失われているという実感が伴うことが重要なのであって、実際にそこで見え隠れしているものの実体とは、些細で他愛のないものであって構わない。何よりも、シチュエーションにムードを与えることが重要であるのであって、実体の存在からはすべての人々が追われている身であるという事実こそが真である。失われたと感じられている些細な実体、それはこのストーリーの男女にとって、お互いの母国語としての英語でしかないのだが、形式的な対象Xを、再び自覚させるに十分なプロセスのみを、日本−東京という環境は与えてくれればよいだけだからだ。