柳町光男の『カミュなんか知らない』

是枝裕和監督による04年の作品『誰も知らない』では、真に内在的な生が生きられている現場というのが、誰も知らないという位相によって与えられている場所だということを示しているのなら、柳町光男監督の06年の作品『カミュなんか知らない』では、真の生成と内在的生の充溢する現場とは、古典的な固有名、歴史的な名辞、有名人としての固有名とは関係のない場所で起きるものということを示すものとなっている。しかし、柳町光男にとって、それは別に「誰も知らない」という位相空間によって起こされるものでは決してなく、やはり何かが起きるためには、内在的生が生成し、そこに生きられた充溢的存在が生じるためには、そこに常に見てくれる人の存在、誰か視線を媒介してくれるものとしての他人の存在とは絶対的な必要条件となっている。しかしそこで生成を支えてくれるものとしての固有名の存在とは、決して「カミュ」のような歴史的固有名ではもうありえず、身近な友人達の名前、親しく知りうる日常的な他者の名前になっているのだということが、奇妙に強調されることになっている。

舞台は池袋という都会の片隅に構える古い大学、立教大学がモデルとなっており、大学の映画サークルが映画を完成させていくプロセスを映画として撮っている。池袋という街の構造を一杯に活用し、そこで出入りする、大学生達の交歓や一喜一憂を描き出している。歴史的な有名人の存在、歴史的な指標としての大きな固有名の存在になんら頼らず、そこでは学生サークルによる映画制作の現場が取り仕切られているといったような現象をさして、歴史の後の映画的制作ということで、ポストモダン的な大学の、日常的な光景が切り取られうる。名前に対する無知で無邪気な、歴史の後としての楽観主義的な大学生的感性が形成されているとはいえ、歴史に対する無知は、いざ制作に対して向かい直した態度として、逆に素朴なまでのモダンな枠組みを一から反復させる、若い人間の逆に硬直した習性にも直面することになるだろう。

大学生達は、もはや自分の映画を作るために、大文字の固有名については語らない、必要としない。彼らが気にしているのは、身近な他者の名前である。そして身近な他者のセックスである。大学を駆け抜ける学生の口から、何度かビスコンティという言葉が漏れ聞かれるのがわかる。サークルの監督をしている大学教授は、自らを「ヴェニスに死す」の主人公の老人、アウシェンバッハになぞらえている。顔を真っ白に塗りたくり、本気か嘘だかわからないような自殺未遂を演じる、そんな自己演出をしてみせることもある。このようにして池袋にある古い大学の片隅では、時々亡霊的に古い固有名の存在が頭をもたげ、さり気なく自己を主張しに来ている事もあるのだ。

学生達の撮っている映画は、人を殺してみたかった、という形而上で安直、意味不明な動機から殺人事件をおかした17歳の高校生の実話を追っている。殺人の動機を巡るこの形而上性を指して、カミュ的という形容が当てはまるのだろう。しかし、別に撮っている学生達はカミュの話をするわけでもなく、役者を演じる若者たちもカミュという名前を知らない。しかしカミュなんか知らずとも、やはり彼らは同じ問題を同じ構造の中で繰り返し、作品として作り直している。映画を作るという場所の設定が、そこにかつてありえたあらゆる物語の構造を誘き寄せてしまう。映画を作ってしまう、そこに一定の機材と人材が必要条件として揃えば、映画というのは勝手に作られてしまうという物理的で客観的な条件の堅牢さによって、そこに彼らの気づかない歴史の存在が、微妙に見え隠れし、大きな手のようにして彼らの運命をさり気なくひとさらいしている気配は、感じ取ることができる。