是枝裕和の『誰も知らない』

東京のアパートに引っ越してきた母と男の子の二人の親子が挨拶に回る。この母子家庭には何か秘密がある。引越し屋によって運び込まれた荷物、大きなトランクの中からは小さな弟が出てきた。小さな妹が出てきた。そして少し大きな姉と長男の存在、この家には本当は四人の子供と母親という住人が入ったのだが、それは近所に秘密にしておいた。誰にも言わないし、誰も知らないはずである。母親は仕事にでかける。百貨店の売り場で働いている、元気で楽天的な女性だ。長男は本当はもう小学六年生であったはずだが、家で一人で勉強していた。少年は母親に言われ、学校にはいかしてもらえなかった。やはり学校にいっていない他の三人のきょうだいの面倒を見ていた。「大きな声は出さない」、「ベランダには出ない」これが子供達の掟だった。お金を母が長男に渡す。長男と長女でうまく遣り繰りをしながら、きょうだい四人の生活がまかなわれている。それでも楽しい家族だった。しかしある日、母親が帰ってこなくなった。新しい男と失踪してしまったのだ。母親から仕送りの金と手紙が送られてくる。それを頼りに長男は弟妹の面倒を見る。

1988年にあった巣鴨子供置き去り事件を題材にして作られた映画である。きょうだいは、母の帰ってくるのを心待ちにしている。母からの手紙と送金だけが頼りである。しかし母からの連絡はやがて途絶える。きょうだい皆の父親は別である。長男は金の苦心に、父親たちをひとりずつ訊ねて回る。タクシー運転手の父親。建築作業員の父親。やがて水道も電気も止められてしまった部屋で、子供達の共同生活は続いていく。公園に水を取りにいく。公園のトイレを使う。公園でからだを洗う。洗濯をする。そんな生活の中で、やがて下の妹は力尽きて死んでしまう。実際にあった事件を元にしているという。この事件は、現実には警察に発覚するのだが、映画ではそこまで描いていない。あくまでも子供達の小さな共同世界が、滅びることのないままに、夢の中のようにして過ぎ去っていくところで終わっている。この事件が明らかになったとき、証言では、でもお兄ちゃんはとても優しかった、という声が強かったというのだ。

東京のアパートの片隅で、野生化した子供たちだけの生活。お兄ちゃんは、母親がいなくなっても頑張って、きょうだいだけの自立生活を維持させた。友人やコンビニのお姉さんは問う。なぜ警察に届けないの?そうしたら家族が皆で暮らせなくなるから。長男は、母から言いつけられたその掟をずっと思い込み、従い続ける。きょうだいのために、誰にも言わない。自分たちの生活がいかに苦境にあるのかを。警察にも言わないし、通り過ぎていく大人に助けも求めない。何処までも自分たちだけで、この生活を続けていこうと前進する。この痛ましいが、生命力に満ちたきょうだいの世界を、是枝裕和監督は描写に収めている。彼らは物質的に孤立した生活を乗り越えるために次々と自ら方法を発明していく。外で友人と知り合う。学校にいかない中学生の女の子。もちろん中には悪い仲間とも知り合うことになる。そそのかされて一緒に万引きをやる。この映画で描写された、子供たちの切なさと愛おしさとは、もう他のどんなイメージとも換えられない位に、胸に強く迫る、突き刺さってくる。こんなに切ない愛情が、自律性のために生きている。この自律性のために、誰にも助けを求めないし、また助けというものも何だか彼らは知らないのだろう。他の世界がありうるという可能性さえ気が付かないから、とにかく今ここの、この愛だけを維持しようと子供は守り続けたのだ。美しく切ない、そして逞しい子供の実存である。

映画を見てこのシチュエーションを巡る重力に引き付けられた者は、彼らの何を守りたい、そのままにしておいてやりたいと思うのだろうか。あるいは何とかして外部の保護を求める手段というのを、彼らに教育してやりたいという、そういう使命感を強く覚える者もいるだろう。彼らの中に、決して損なわれずに、そっと保存させておきたい愛の姿、それはお兄ちゃんの一途なる、母子一体感の幻想、家族の一体感の幻想であろうか?最も原始的な姿のままで、他に犯されもせず、ずっと維持されている家族愛的一体感への純粋な信仰の姿を、不可能とはわかりつつも、彼らに何処までも進んでもらいたいという願望が観るものの中に生まれる。途中で外の男友達から入ってきた乱暴さの作法、イジメのセンスへと感染しそうになったり、きょうだいの中で喧嘩が起こり、ドメスティックな暴力が発生しそうになるという現場も幾つも与えられる。弟を小突いた兄。しかしそこでそれをやったら、この幻想の球体が遂に終わってしまうのではないか?それらの一瞬が、スリリングな感触によって、観るものの良心と幻想を不安にさせ、揺さぶりながら進むのだ。死んだ妹を、トランクケースの中に収めて、きょうだいは羽田空港脇の空き地まで埋めにいく。

彼らはこのように何も所有しない。所有しようとしない。彼らはこの物語のために存在しているだけの、純粋な無産者である。彼らにとって、在るものとは、ただ最も原始的なる、彼ら同士の現前であり、お互いによってお互いを確かめ合う、原始的な感触として確認されるお互いの姿だけであり、その愛だけである。ついに彼らは、それ以外にも世界があることを知らないで、ここまで来てしまった。しかし他の世界なんて、知る必要がなぜあろうか?これはユートピアの幻想である。本当に純粋に無所有なものとなり、愛だけを確かめるための、最大限に工夫が為された人工的なフィクションである。このフィクションの姿に、我々は憧れるのだろうか?これは無所有と純粋さと内在的屹立の為の美学だろうか?いや、そこに憧れがあるといったら、やっぱり嘘である。しかし完成されたユートピアの提示は、やはり我々の在り方に、素朴で根源的な疑問を、何かしら投げかけてくるのだろう。*1

日曜日に学校のグラウンドで行われる少年野球でボールの行方が、ファールチップによって突如、関係のない通りすがりだった我々の道筋に、転がりこんでくる。ボールは、無造作にコロコロと、突然我々の通り道に落ちてくる。ボールを拾って、グラウンドへ投げ返してやるとき、何かそうする自分自身にも、偶然に降って来た嬉しさが隠し切れず、久しぶりに野球のボールというのを、向こう側の他者に向けて、狙いをつけて投げ返してみるのだ。

*1:無所有であることが、幻想を持つことによってのみ維持される。無所有であるには、強度の幻想が伴わなければありえない。つまり無所有=自己を持たない、忘却していられるという状態の維持とは、それに頼れば自己を見ないで済むという強固な対象的幻想の実在によって、常に償われて供給をされ続けている。子供たちにとってその幻想とは、母がいつか帰ってくるというものであった。正当性の観点からとってみれば、幻想の球体とは、解体されることが当然で必至である。共同的で身体的、一体化的な幻想の持ちようとは、社会性の導入によって解体され、個々は個体化のプロセスを受けなければならない。警察をはじめとした大人世界への通道によって、一般世界、世俗世界、共通の世界へと自分が参画し直す事への憧れを、時に長男は掻き立てられながら、そこで止まりまた家族−母−きょうだいの幻想世界の内在的な重力へと退行していくのは、彼にとってそこに濃密な強度と重力を放つ幻想の球体が期待されうるからである。しかしその幻想的期待も明らかに錯覚であることが、長男はじめ子供たちには確実に外部認識として訪れてもいるはずである。幻想の自律性をとるか、社会的一般性の世界を選択するかにおいて、自発的にそれが来るというよりも、外部からの強制力によってそれは為されるというのが通常だし、また現実の事件の経過である。世俗離れの幻想世界をいかに子供たちが維持して逃走を続けるかというより、どのようにしてこの一端出来上がってしまった強固な幻想共同体が、社会的な解体を受けるのかという筋を見るほうが、この映画にとっての現実的で分析的な観方であることには変わらない。幻想の突出は、そこに正しい崩壊と介入と零点までに下る消滅の過程を受ける。そこには社会的自然の正確さが改めて描写を受けることによって、抽象的で形式的な摘出が為される。それがこのようなタイプの映画における、見せるべき技となるだろう。