デレク・ジャーマンの『BLUE』

1.
90年代、イギリス人映画監督のデレク・ジャーマンは身体をエイズに冒されていた。余命幾ばくもないということを自ら悟りながら、最後に数本の映画を撮っていた。93年に二本の作品を完成させる。それは『ウィトゲンシュタイン』と『BLUE』である。プロデューサーは日本人の浅井隆だった。前者は哲学者の伝記を扱っている。後者の場合はちょっとばかし特殊な映画である。『BLUE』は全編約80分の間中、画面が一面青色に覆われたままずっと続く。そこに朗読と効果音が被さる。絶妙に構成された音楽も織り交ぜながら、主にエイズの進行によって自分の身体が弱っていく過程をデレク・ジャーマン自身が描写した日記と詩のようなものが読み上げられている。画面は変わらない。ずっと青である。巧妙に仕掛けられた効果音と音楽の引用は素晴らしい。朗読のテンポもよい。

2.

青とは何か。デレク・ジャーマンは青のイメージによって普遍性を表現しようとしている。それはデレク・ジャーマンによって考え抜かれた、正確な意味での普遍性である。青とは普遍性のことなのだ。画面の一面が青なのである。それがずっと進行するのだ。

3.

青をずっと見つめていると、それはまるで真空という状態を見ているような気にさせる。この感覚の体験は何処かで見覚えがある。それは宇宙空間が真空状態であることにも繋がっている。宇宙とは真空で無重力である。そのような底のない空間を目の当たりにしたとき、人はまず恐怖を覚える。それは底なしの無である・・・いや、底なしの青である。

4.
空をずっと見上げて見よう。昼間の空である。快晴の時に。空の色は青い・・・青いとされている。しかしずっと見つめていると、その青さを基礎付けているものとは、その向こうにある宇宙空間の色だということがわかる。だから空の青とは、その奥底には黒さを発見することができる。空気層を通過するときの光の加減で見えているにせよ、あの青の基調に在るのは宇宙の黒なのだ。

5.
この青さとは、まさにuniverseである。つまりそれは宇宙なのだ。青は宇宙に繋がっている。そして宇宙の性質とは真空である。底知れぬことである。そこに本当に触れてしまったら、まず人間は生きていることができない。呼吸するということもありえない。しかしその空間は確かに存在している。超越論的な次元としての空である。

6.
エイズウィルスが進行していく中、デレク・ジャーマンは視力を失っていく。常に薄明の中で暮らすような状態になっていく。友人たちの多くも死んでいく。彼の身体器官の一つ一つが弱っていき免疫力を低下させていく。彼は問う。視力が半減すると、ビジョンも半減するのだろうか?

7.
映画監督にとって自分の視力を失っていくとは、どのような体験だろうか?しかも生きながらにして視力を失っていく。体力も失っていく。抗体力も失っていく。肉体は表面から崩壊していく。・・・しかし意識のほうは、まだ大分しっかりとして在る。これはデレク・ジャーマンにとって『BLUE』という作品製作に向かわせた動機になっている。正常な視力とは何か?それが彼の問題になる。