悲劇とヒステリー

  • フロイトは、ヒステリーという現象に見られる客観的な構造を分析している。ヒステリーとは精神の均衡体系における恐慌状態である。この恐慌は何処から起こったものなのか。何を前兆にやってきたのか。我々は前もってその前兆を知ることはできなかったのか。ヒステリーを突き動かしている動因とは、必ず何物かの強迫であると考えることができる。その強迫とは、当該人物にとっての過度に強力な観念によって動いている。
  • ヒステリーに陥っている人を外側から眺めることは、奇妙である。この奇妙さとは、ヒステリーがその人物にとっての過度に強力な観念から来ているとわかるのだが、その観念が他の人にとってはなんの力も持たないし、その観念が持っている重大さが他人には理解できないということによる。ヒステリーによって恐慌状態に陥った患者とは、周囲の人々からは孤立した世界の中に自分自身で閉ざされている。ヒステリーの発生についてフロイトは次のような注釈をつけている。

ヒステリー性の強迫はこのように、
1)不可解であり、
2)思考活動によっては、解決不可能であり、
3)その構造が不調和である。
『科学的心理学草稿』第二部精神病理学

  • 人間の精神状態にとってヒステリーの発生とは、よく一般的な経済システムにおける恐慌の発生との類似によって語られる。何故このような「恐慌」は起こるのだろう。恐慌の前兆、恐慌の必然性とは既に前もって、人物の所有している認識の中には孕まれていた、と考えることができる。それはアプリオリに孕まれていたのだ。人物の普段抱いている認識、世界像の把握の中から、構造的な亀裂として結果的な恐慌=ヒステリーの発生が出てきたと見ることができる。つまりヒステリーとは、まず何よりもかの人物にとっては、認識の病にあったのであり、その症状が結果として表出されてしまう場合もあれば、表出されないで人物の内部ではずっと眠り続ける場合もある。
  • ニーチェは、人間の持つ認識の中には潜在的に孕まれざるえないとされる、この構造的な盲点、必然的な亀裂の存在について、『悲劇的認識』という言い表し方をしている。

科学はその逞しい妄想に拍車をかけられ、奔馬のようにまっしぐらにその限界まで急ぐ。そしてそこで、論理の本質の中に隠されていたその楽天主義は難破するに至る。というのは、科学の描く円周は無限に多くの点をもっており、どうすればこの円をいつか完全に測定できるかという見きわめさえもつかめないでいるうちに、高貴で天分ある人間でさえ、早くもその生涯のなかばに達してしまい、不可避的に、円周のこの限界点に突き当たり、そこで解決不可能なものをひたすら見つめることになるからである。そのとき彼は、その限界点において、論理が論理それ自体のまわりを虚しく空回りするばかりであることを悟り、終いには、論理が論理の尻尾に噛み付く様をまのあたりに見て愕然とする。−−まさしくそのとき、認識の新しい形式、悲劇的認識が発現するのである。この新しい認識は、ひたすら忍耐ということのためだけに、保護および治療剤として芸術を必要とするであろう。
ニーチェ悲劇の誕生

  • つまり悲劇とは、人間の意欲によって到達が目指されている認識の中に必然的に孕まれてしまう、構造的な盲点によって発現するのだ。
  • ヒステリーの原因とは、患者の自力の思考力では、それが既に解決不可能な暗礁に乗り上げられてしまっていることによる。つまりそれは患者にとって、認識の病であり、認識不可能なものに対して無理に思考が立ち向かい続ける(患者にとっては、またこれも何かの理由から立ち向かい続けざるえない)という、どうしようもなさ、出口のなさに由来している。だから本来、患者はそれを思考してはいけないのだ。患者が治癒されるためには、何とか彼自身そこから想念を逸らすように、忘れるように努力しなければならない。あるいは、もしそれに論理的な解決の糸口が客観的に存在しうるというときは、患者が治るためには、誰か他人の力によって、その論理的な糸口を教えてもらう必要がある。『不可避的に、円周のこの限界点に突き当たり、そこで解決不可能なものをひたすら見つめることになるからである。そのとき彼は、その限界点において、論理が論理それ自体のまわりを虚しく空回りするばかりであることを悟り、終いには、論理が論理の尻尾に噛み付く様をまのあたりに見て愕然とする』というように、ニーチェならこの精神的=認識的な暗礁の存在について説明しうる。
  • 認識衝動とは人間の最も人間らしい欲望の姿ではあるが、それ自体の危険性も内在している。人間にとって悲劇とは、この認識への旺盛なる意欲の中に既に孕まれている。ギリシャ悲劇とは、まさにそのような人間の宿命的な性質について描写してきたのだ。この認識への意欲を楽天的に説いていた人こそが、他ならぬソクラテスである。