ホワイトストライプスを

深夜のテレビで見た。フジをつけたらWhite Stripesのライブをやっていたのだ。若い世代の人間たちにとって今やロックバンドというのは皆無の状態、壊滅の状態である。否、表面上は、十年、二十年、三十年前と比べて、楽器の値段とは驚くほど安くなり、音楽のソースは情報として安価にあるいはfree、ただ同然で至る所に出回り、猫も杓子もロックを知ってる、バンドを組める、エレキギターが弾けるというような氾濫状態にあるだろう。しかし実質的な側面を見てみると、もう80年代の段階でロックという音楽ジャンルは殆ど死亡してるのだ。ロックとはもうとうの昔に終わっている音楽史上のある一ジャンルである。これは最近の若い世代にとって精神的な支柱となるものがもう、あらゆる意味でなくなり、退廃してるとか無気力であるからという理由では全くない。若い人間の精神性は昔も今も別に変わっていないだろう。これはただただ単純な理由に基づく必然的な展開であって、ロックというのはその形式上パターンが有限で決まっており、一定の順列組み合わせの中で音の配分、リズムの配分を調合し尽くしてしまえば、人間が快として認識しうる音のパターンというのは埋め尽くされてしまうという物理的な理由によるものなのだ。かつてはバロックがそうでありジャズがそうであったように、これは全く必当然の限界による理由なのだ。このようにして一時代を華やいだジャンルとは必ず終わっていく。そういう意味で本質的に1960年代と70年代の音楽だったといえるロックとはもう死んでいる、すべてをやり尽くしている。だからロックが好きだというのは今やクラシックが好きだという事とそんなに意味は違わないのだ。少なくともロックのイメージが語られている場合、もうそれは既に古典化したロックというジャンルの場合であることが主である。

そんな中でも、数量的には安価になった安易な物質環境の中でロックを演奏するバンドはプロアマ問わずに数多あれど、実質的にこれはロックだといえるものとは滅多にないのだ。滅多にロックの歴史的ジャンルに相応しい実質性とはもはや出て来ることができない。誰でもエレキギターを弄くっていればロックという音楽の生成に参加できた時代というのが、かつては確かに実在した。そこでは才能さえも関係なく、それがまだ未開のジャンルであったがゆえに誰もが触れればロックの創生を実践することができたのだ。特にそれは70年代のアメリカとイギリスにあった特権的な環境だった。日本にもあった。

これはロックだというに相応しい、新しい組み合わせ、新鮮な感性ではっとさせてくれる音とはもう探すのが珍しい。その事態が明らかになっていたのは昨年のLIVE8の状況でもそうだった。若い新しいバンドはそこに数多く出てきた。しかし殆どのものは何もインパクトを残さない。他と幾らでも取替え可能の任意のバンドというのに過ぎなかった。あるいは単にコピーバンドというものの枠を出ることができない。音の物理的な条件として。往年のロックスターがライブ8で演奏する様はもうクラシックとしてのロックという貫禄を見せ付けた。ピンクフロイドポール・マッカートニーもスティングも然り。

そんな中で実質的な新しい感性、新しいロックを発見することはもう本当に稀な現象であるのだが、このホワイトストライプスというバンドは、珍しく若いが実質的なロックを所有する新しいバンドだったのだ。聞けばわかるが、実はこれはレッドツェッペリンのオタク的なマニアが、勢い余って弾き語りツェッペリンとでもいうものを発明したというに過ぎない、あまりにシンプルな構成の音である。ジミーペイジがホワイトストライプスを絶賛したという話を聞いたことがあったのだが、その理由を今夜やっと理解した。

編成はギターとボーカルのちょっとおどけた感じの男性が一人とドラムを叩く女性が一人。たった二人だけのバンド編成でライブも二人だけで全部やる。男性は、ギブソンもどきの大味なギターを抱え(しかし別にギブソンではない)アンプに繋いで大音量で歪ませ、ツェッペリンの懐かしいグルーブを使って弾き鳴らす。絶叫して歌っている。そして女の子が横で男性と顔をあわせながら、これまたシンプルな編成のドラムセットを滅多やたらに叩きまくるというものだ。このドラムセットがまたかつての故ジョンボーナムを思わせる。かつてジミー・ペイジジョン・ボーナムが二人でセッションしていた姿の再現そのものに、男と女が二人で懐かしのツェッペリンごっこに耽っているのだ。なんかアメリカの子供が家のでっかいガレージで遊んでいるような光景だ。それがそのまま生な音そのものでレコーディングされてCDになって発売された。そしてホワイトストライプスは一気に全米で大ヒットを飛ばし、今はもう珍しい若くて新しいしかも本格派のロックバンドとして認証されたのだ。ジミー・ペイジのお墨付きももらった。