三つの普遍性

ジジェクは普遍性を巡る様相について、それが三つの普遍という種類に分類して見ることができると述べている。

これまで見てきたような行き詰まり状態が教えてくれるのは、<普遍的なるもの>を織りなす構造が、一見したよりも遥かに複雑だということである。この普遍であることの様態を三つのレベルに分類して考察してみせたのがバリバールであり、その分類は明確にそうとは言えないまでも、ラカンの提示した<現実なるもの>、<想像なるもの>、<象徴なるもの>の三幅対と対応をなしている。すなわち、<現実なるもの>にたいしては、グローバル化という「現実」の普遍があって「内部にある様々なものの排除」というプロセスを補遺として随伴している(その結果、われわれ一人ひとりの運命は、グローバル市場の蜘蛛の巣状に張り巡らされた複雑きわまりない関係に左右されてしまう)。<想像なるもの>には、イデオロギー的なヘゲモニーを管理し維持するフィクションを形成する普遍がある(<教会>や<国家>は普遍的な「想像の共同体」であり、主体が、自分自身の直接経験している社会集団−階級、職種、性、宗教・・・−のなかへ没入してしまわないように、それから一定の距離を置き、自己をひとりの自由な主体であると措定するのを可能とする)。そして<象徴的なるもの>に対応するのが<理想>という普遍であり、平等=自由を要求する革命運動によって具体的な姿をあらわすが、その要求は、個別の条件などをまったく顧みることのない過剰なものであり続け、現存の秩序に抗する終わることのなき反乱を押し進めていくのであり、またそれゆえに、決して現存の秩序の中で「荒ぶる牙を抜かれ」、そこに併呑されることはない。
  −−三つの普遍 『厄介なる主体』379P

一口で普遍性といっても、我々はそのイメージを具体化することはできない。普遍という観念が機能する様相とは、現実の諸場面によってそれぞれ異なる位相を示している。

現実界としての普遍として対応するものとは、グローバリズムのように、実際に我々の目の前で統合性が機能し、資本の運動によって世界が経済的に巻き上げられながらある確実な求心力をもち、運動している姿そのものである。

想像界としての普遍とは、イデオロギー的な次元を人々に供給し、それは国家や教会を、そしてテレビのイメージに代表されるようなマスメディアをイデオロギー装置として媒介し、人々の全体的な共生観についてのイメージを与え続ける、フィクションの生産装置である。

そして象徴界としての普遍にあたるものとは、いわば「理念」的なレベルでの認識であり、その象徴的機能であり、左翼的な革命の象徴的欲望にもなるものだが、それらは常に現存の秩序には併呑できない崇高な次元を指示する事を機能として持っている。つまり現実の社会秩序とは常に乖離性を持ち続けるがゆえに、それら理念としての普遍とは機能するのだし、またそういうものとして最初から人々には欲望されている次元である。

ジジェクのこの分析は、普遍性概念自体が何物かの装置として、最初から忍び込まされているという事実性を教えてくれる。

普遍性概念に対して、真面目になること、その崇高なイメージを失わずに伝承し、それを文学としてか、運動としてか、あるいはそれもまた「商売」としてか、人々に示すという営みが、どのような動機をもってして行われる文学的営みであるのか、また全体的にそれを鑑みたとき、どのような意味をなしている装置であるのか。

現実界としての普遍性をみたとき、それは確実に存在してる普遍性である。それは世界の広がりとして事実上存在し、機能している。特に人間社会の構成においてそれは経済的に機能しているものであり、資本の運動と切り離せないダイナミズムと構造の中で生きている。人間的自然=現実的社会の歴史としての普遍性とは、経済的法則によって存在するものであり、世界の物理的拡がりを示す普遍とは、まさに宇宙が存在し、その宇宙の法則から導かれ太陽系惑星と地球が存在するという、物理的現実性としての宇宙論的次元としてのuniverseを示す。

それに対して、想像界としての普遍、象徴界としての普遍とは、徹底的に人間的な産物である。それらはいずれも人間の想像の産物なのだ。しかし単なる想像を超え、普遍性概念の実在が人間の構造的意識には必要なのだとすれば、言語と精神として織り成される人間的自然としての社会史が、その超越的理念性の支持構造によって、ある精神的な調和を見出すことが出来るのだろうという、象徴的機械としての人間的社会性の構造的必然をいっていることになる。

普遍性概念が、人間の歴史にとって神学的記憶の引継ぎとして新たな意味を与えられるとき、そこには宗教的信憑性の時代に比べて、現代社会においてはどのような齟齬が引き起こされることになるのであろうか。

普遍性の認識とは、物事の現象的な次元に潜在的にあるはずの、原理的な法則性の発見を含む。そこには、事物の運動し表現される様の奥には、確実に何かの法則性が潜んでいる。しかしそれが神的な認識として表現されることが、単なる認識論的次元と違っていたのは、そこにある普遍性=原理とは、それ自体で何かの命令を含んでいると考えること、命令性として原理を受け取ること、そのように想像してしまうことによるものなのだ。

たしかにそこにあるとされる、確実な自然の法則性とは、そこから何かの命令を発しうるものなのだろうか。

神学的思考にとって、普遍性とは単なる法則性としての原理性であるのではなく、それが主体に対して命令を働きかけてくるという意味での原理なのだ。つまり原理という観念の意味とは、単なる客観的法則であるばかりでなく、それが同時に主体を律しうる頑強な命令性を含み、人間に対して指示するものだと考えられてきたのだ。