アラン・バディウ『倫理−悪の意識についての試論』

しかしそれにしても「現代思想」というジャンルはどこへいったのだろうか。終わったのか。あるいは最初からそれは存在していなかったのか。あんまりチェックもしたことがないのだが、近年に日本でも翻訳されて紹介されてきたはずの何人かの新しい名前というのは、僕にも漠然とした覚えがある。現代思想と呼ばれるジャンルが最も高密度の結晶化したのが、大体80年代くらいまでのドゥルーズデリダの著作にあるのなら、それ以降というのは、そこで到達されたはずの真理の高密度結晶体というのが、解体されて地上に、正確なやり方で拡散され、雨のように降ってくる過程であるといえるのではないだろうか。しかもそれはそんなに『激しい雨』ではない。パラパラとして空から降ってくるという感じだ。確かにその後にはジジェクラカン解釈の隆盛などあったはずなのだが、ドゥルーズによって開示された真理の根源的隆起の体験というよりも、それらはある現実性の上に、社会的な日常的次元の上に正確に言葉によって捉えられるスコープが回帰して着地していく過程であったにすぎないと思う。それは思想が現実的地上性の上に、簡素化される過程を経て言葉の正確さを取り戻す上で、必然的な有様だったのだ。思想に対して幻想とはありえない、という現実を、再び共有しなおすために。言葉に対してもイデアに対しても、超越性とは過剰な期待であったことを改めて納得しなおす、ある沈静化していく過程である。その後の思想の言葉の簡易化と日常化とは、鎮静剤が正確に、一般的に、合法的に調合されゆくためのケミカルな過程である。

そんな思想畑の話であっても、時代は移り変わっていくのだから確実な世代交代というのがあり、各時代には必ずその時代の代弁人というのがいる。かつての思想大国フランスにももちろんそういう人達は残っている。いま僕は、そういう名前の中でも、バディウという人の著書を何冊か図書館から借りてきて調べているのだが。なかなか面白いと思う。手元にあるのは、『倫理−<悪>の意識についての試論』と『聖パウロ−普遍主義の基礎』。

ちょっとインスパイアされたフレーズでも書きとめておこう。『倫理−<悪>の意識についての試論』より。この本は、ちょっと面白いですよ。

倫理という語の意味を救い出し、まったく他なる意味を与えることにしよう。倫理を抽象的範疇(人間、権利、他者・・・)に結びつけるのではなく、むしろさまざまな状況へ差し戻すことにしよう。犠牲者への憐憫といった次元ではなく、特異な諸過程を耐え凌ぐことができる格率を制りだすことにしよう。ただたんに保守−保全的な良心に賭けるのではなく、倫理がたどる複数の真理の運命から出発することにしよう。

<善>の一貫性の虜になった世界などないのだ。世界は<善−悪>の彼岸に存在し、そしてそこに留まるだろう。 善が善であるのは、善が世界をよりよくしようなどと主張しないその限りにおいてである。唯一存在すること、それはひとつの特異な真理の状況的な出来なのだ。それゆえ真理の潜勢力とはまた無力でなければならない。 真理の潜勢力の絶対化は、ことごとく<悪>を組織する。この悪は状況を破壊するに留まらない。

真理が全体化する潜勢力をもたないということは、詰まるところ、真理の過程の所産である主体−言語が状況を構成するすべての要素に名称を与える(権)力をもっていないということを意味する。少なくともひとつのリアルな要素が、状況に在るひとつの多が、実在していなければならず、それは事実に即した命名には近接不能なものに留まり続けるがゆえに、一に懸かって、世論、状況の言語へと持ち越されるほかない。真理が強いることができない少なくともひとつの点があるのだ。 この要素を、ひとつの真理における『名づけ得ぬもの』、と呼ぶことにしよう。

ここで云われてる『名づけ得ぬもの』というのが、実は柄谷行人においては「固有名」ということになってしまっているのではないか?というのが、僕の読みなんだな。正確に言うと柄谷は「この私」(thisness)ということで、それについて指示を与えている。しかし「この私」thisnessとは、まさに名づけ得ぬものの存在に他ならず、それは名前と名前の間にある裂け目において現れるから、そのような直接指示によってしか示すことができない。語れるものと語りえぬものの間に出現するものである。それではこの名づけ得ぬものと固有名の関係とは何なのか?名づけ得ぬものは、それが固有名に還元させられなければならない「義務」があるのか?またそのような還元とはそもそも可能であるのか、不可能な領域はどこか。

固有名によって表象的に組織され、表象交換が為される社会性において、自分が本当に言いたいと思っているもの(vouloir-dire=want to say)としてのthisness、自己が捉まえたいと思ってるこれとしての、把持したい、支持したいと思ってるこれとしての、未だ−名づけ得ぬものと固有名という対象化されたものとの関係が、柄谷において混乱をきたしているのではないか。

故に固有名において真理=普遍性を表現することは、元から出来ることではなく、真理としての全体性=普遍性とは、名づけ得ぬものとしての是性においてしか、本来思考し得ない。そして単独性から特異性に繋がる思考とは、固有名よりも常に、この名づけ得ぬものにおいて、より多く宿っている。本質的なものとは、常に名づけ得ぬものとしての、是であり、固有名とは社会的な偶然性にこそその根拠を置く。社会的な偶然性によって分与されたものという意味において、その社会体系とは「一般性」なのである。一般性をずらすもの、そしてまさに今、現在性、同時代性においてずらしの作業を行っているものに対しては、我々はそれを名づける事はできない。正確に言えば、それは事後的に、遡及的に見られたときにのみ、あれはこういう名前だったのかと納得し、名を与えることが出来る、というのにすぎない。

例えば、固有名によって普遍性を指示することはできない。それをやれば必ずやエゴイズムに転落するだろうし、普遍性=真理の全体性とは、常にそのような指示の把捉から逃れてゆく全体にあるだろう。同様に我々は固有名によって普遍性を目指すことさえできないのだ。(それをやったとしても具体的な、この私-性としての名づけ得ぬものは、窒息するか隠蔽されるかするだろう。しかし固有名によって表出されるナルシズム的欲望も、また何かの全体的原動力として機能することもある。それがエネルギーに還元される限りにおいては、表現を構築する全体的作業のプロセスの中で、エネルギーの出自、欲望の出自とは、どうでもいいものとして流しうる。さらに云えば、そこに妄想や誤解が混じっていようと、制作活動のエネルギーにとっては、問題にはならないのだ。要は動機は問わないから、果たしてその制作を、表現を、開始させられることができるかなのだ。そしてそれに形象を与えることができるか、対象としての強度を詰めるまでに到達するか。)

確かに我々は、カントやヘーゲルマルクスといった固有名を複数使うことによって普遍性を思考する。しかしそれは、カントやヘーゲルといった個物の名称で普遍性を表現しうるというのではなくて、単にそれらの名称は歴史性を意味しているのである。それら固有名とは具体的には、歴史を表現している指標INDEXにすぎない。これら固有名と普遍性を短絡させれば、幾らでも社会は偶像崇拝のシステムを作り出しえるだろう。