身体論的支配の構図

山間部の温泉町の空は灰色で雨が降っている。車のフロントガラスに降りかかる雫をワイパーが小刻みに拭取りながら、陰鬱な空の色をフィルムが捉えつづける。草津の温泉町で昔、名を馳せた一人の活動家が気功の医院を営んでいる。彼こそは時代的な闘争がもっとも盛り上がっていた頃にアジ文を旺盛に書いていた活動家である。スガ秀実が車を降りて傘をさし、かつての活動家、津村喬の家の門を潜りにいく。

所狭しという感じで物が積み重ねられた、普段の生活の気配も漂う居間のような部屋で語る彼の姿は、思いの他に穏やかだ。この穏やかさが彼にとって本物のものなのか、あるいはかつて差別糾弾闘争のもっとも激しかった時代を生き抜いた彼の内側の姿とは、時にはおそるべき別の鬼の形相というのも密かにどこかに隠しもっているのだろうか。とにかくスガ秀実に対しては、坦々として彼は自分の過去にやってきた活動の経緯を順番に語っていくものだ。

彼が気功から中国医療についてよく知るのにはわけがある。彼の父親はかつての社会主義ジャーナリストであった。彼は子供の頃には中国で暮らした経験もあった。帰ってから彼は早稲田に入るのだが、彼が関わった運動の形態というのは、その後の大学の中でのノンセクト的な運動形態にもずっと続くことになる基礎を作ったのだろう、ある特徴的なスタイルを生み出すことになった。当時まだセクト主義と暴力革命論的な風潮の支配していた大学の構内で、彼の中国気功の精神から影響を受けたスタイルの身体論的な運動形態は、左翼運動の様々なるスタイルの中でもある安定をもたらすものとなったのだろう。

気功についてはまだ幼稚な認識でしたが、自律神経レベルの快感を磨くことが消費社会の抵抗線になるということは当時から予感はしていました。もうひとつ、ドイツからアメリカへの亡命者ライヒから始まるアメリカの一連のボディワークの波が伝わり始めていました。ライヒの『性と文化の革命』は大好きな本だったので、ずっとあとに食文化の本を作ったときに『食と文化の革命』と名付けたほどです。ライヒがオーガズムさえあれば大丈夫というのには懐疑的でしたが、「筋武装」というのは「からだの中の権力」を言葉にしたかった当時の私にとって決定的なヒントを与えてくれた言葉でした。筋肉が武装する、あるいは、ヨロイになった筋肉。そういった目で見ると、自分も含めて誰もが実にたくさんのヨロイをつけて世間と向き合い、世間に認められてるのだということがわかってきました。
津村喬『LEFT ALONE』書籍版

津村喬にとって、毛沢東経由の共産主義、それを補完するものとしての中国気功、そして当時時代の波として入ってきた、アメリカン・カルチャーの流れを汲むところの解放主義思想、ヌーディズム的な衝撃を求めるものとしてのそれは、身体論的解放を唱えるものであり、文献的にはウィリヘルム・ライヒの流行として流通したものだが、これらを統合的に吸収していくことによって、当時まだ勢力が強かったセクト主義的な権力奪取に囚われる共産主義運動の横で、オルタナティブな左翼スタイルとして、日本でもアメリカ経由の新しいサブカルチャー情報の流入と歩を合わせながら連動し、一定の実践的形態として明確な形を帯びるに至るものだった。

左翼的な意味での身体論の思想が、最初にヒッピー的なサブカルチャー及びそこに並行する理論的著作としてのライヒに依拠し触発されることによって現象的に拡大したものだというのにはわけがある。共産主義運動のあり方において、知識と概念の支配が強すぎて、それらが人間を解放するものというよりはむしろ思弁的なやり方で人間を抑圧している運動体系であるという認識が明らかに共有されはじめたころに、「解放」のラディカルな実現として、身体的なものの抑圧からの解放、そしてすなわちそれは性における身体的自己の解放として想像されて、次の啓蒙的価値を持つサイクルとなった。ヌーディズムの顕在化やそれらフェスティバルの開催光景やサイケデリック・カルチャーの存在が映画やテレビの映像に載って拡散される流通が一般化し、視覚的=直接的なインパクトの体験を希求する啓発的な新しい運動性として、広まった。

日本の流れで言えば、まず戦後のヒューマニズム的啓蒙の精神に発端が起こり、次にヒューマニズム啓蒙からのアイロニカルな反転として、疎外論的論理構造の拡大を見て、その克服としての主体性論、そして主体性論の実践的でかつビジュアライズされた支配体系としての党派の論理が横行する。疎外論−主体性論−組織論(党派の論理)の現象の中で、窮屈な息詰まり、窒素感から堪えられなくなったものが、その次にそれら確立されて支配的に振舞い始めた党派の論理を批判するものとして、物象化論が出てくる。

ブント系の流れを引き継ぐ広松渉によって進められた物象化論にとって、商品形態はもちろんのこと、党派による可視的な支配形態こそが、物象化されて見失われた意識であると告発されることになる。それでは物象化された意識と物自体の乖離、更には物自体が人間的に捉えなおされるときの次元にとって、最も親和的なレベルとしての、身体的なものの所在というのが問題の射程にあがってくることになる。かくして、具体的で直接的なものとして最初に意識の表面に差し出された、疎外されたものの実在とは、身体論によって、求心的に回収されていくという展開になるのだ。これが日本では70年代に起こっていた論理的展開である。

70年代に身体論の拡大が、左翼および共産主義の運動と、そこからヒッピーおよびそれのその後の展開形としてのニューエイジ系、エコロジー系運動と分岐していくところの結節点となっている地点である。ライヒやヒッピーカルチャーの流入によって示された身体論とは、西洋的な思考体系、およびキリスト教的精神体系にとっては、行き着く先としてのある種の極点を示していた。

そこでは最終的に、解放とは、ヴェールを脱ぎ捨てること、衣服を取ること、ヌーディズムによって覆いを捨て去ることであるという、信憑性の強固に行き着く先として、漂白してたどり着いた極点を見せている。ヴェールを脱いだ果てとしての、裸の身体的な自己を確認すること。そのプレゼンスを感じること。そして同一化すること。融合すること。自然と一体化すること。他人と一体化すること。こういった西洋的でキリスト教的なる傾向のある単純な極点が、ヒッピーカルチャーの流れに沿った身体主義によって姿を見せることになった。

西洋的なる概念的な精神主義思考の果てに、それが転倒される事によって身体的風景というのが見出されたのが60年代の世界的な事件だったとはいえ、身体論の流行は、それでは身体論というのはもともと歴史にとって古来から固有に存在しているものであるということを改めて指し示すことになる。

殊に東洋においては、身体論とは、気功であり、太極拳であり、ヨガでありという事実が改めて発見され、それらはメディアの発達によって確実なものとされた現代社会的にも流行する。近代社会が飽和として見出す先の、エコロジーのシステムとは、かくして古来から続く身体論的な個の確認の次元を、システマテッィクにも、もう一度取り入れ直すにいたるのだ。津村喬にとっては、最初にサブカルチャーとして日本に入ってきた新しい身体論のインパクトとは、中国気功の発見へと向かわせる。

身体論的な触発とは社会学的な基準としても定着していく。身体に問う、という問題の立て方の形式が、実践性の基準として持て囃されるような流れが、しばらく支配的な価値をもつ状態になった。そのとき身体論の受容範囲とは広く拡散され、演劇論や舞踏論の観点からも、特に左翼演劇の批評基準として、身体論的に世界像を捉えなおす試みは展開された。管孝行はそれを「関係としての身体」と位置づけた。文学では、思弁的な形而上的世界像に対する、身体論的導入ということで、中上健次の存在があげられる。

思弁的文学世界の流れとしては、戦後文学の線で言えば、その最終的な完成、及び閉域性としての完結化として、埴谷雄高から野間宏、そして初期の大江健三郎安部公房があった。中上健次インパクトというのは、いわばこれら形而上学的に完成された想像世界に対して、身体的なベースによって紡ぎ出される唯物論的文体を、日本文学に導入できたことにある。肉体労働的な身体主義、いわばそれはプロレタリア身体主義といったものになるのだろうが、身体論的な世界把握のインパクト、及びその力動性というのは、70年代の文学的展開にあって一定の意義も持てたものだった。

いわばそれらは「カラダを張って」作品に挑む、というタイプの無頼なる芸術的生産として、60年代から70年代のサブカルチャーとも深い連動性を共有し、これら身体的な反照に根拠付けられた世界像とは、闘争的な力動的価値を顕揚しうるものとして芸術価値を生産していた時代だった。その影響は映画の生産にもよく反映されている。時代の所有していた強度をまさにフィルムに刻み付けている。そのような身体論の「受肉化」したものとして、若松孝二足立正生の存在をあげることができる。神代辰巳内田裕也の存在をあげることができる。しかしその時代も80年代を境にして、また変貌していかざるえない展開になったのだろう。

先行する形而上学を批判すると僭称する身体論そのものが、やはりまた明らかに別の閉域に閉ざされたものであること。別の形而上性の閉域の中で出口を見失いうるものである、ということも段々と気がつかれはじめることになる。身体に問う、という形式を立てて顕揚したところで、だからといってそこから返って来る解答として、それでは身体とは間違えないのか?といえば現実には全くそんなことはない。逆である。むしろ身体こそが最も間違えやすい。錯覚を孕みやすい、妄想に犯されやすい性質をもっている。「この−私」とは、「この−身体」を根拠にしてるんだから正しいんだと、分析的な理性に対して開き直る者達のその仕種が、まさに別の種類の思い込みと盲目なる倒錯的信仰に充ちているものだという、アイロニカルな悲喜劇性が、身体論の流行からは傍らに産み落とされることになったものだ。

身体論支配の構造が覆い被さろうとする時代的な空の雲行きに対して、決定的な批判根拠を与え、切断を可能にした理論が、要するにデリダのグラマトロジーである。身体性こそが、まさに現前の形而上学として、最も世界を完結的な閉域に囲い込みうる錯視をうむ。それではそのように「罪多き」身体を批判的に囲い込みうる根拠とは何だろうか。グラマトロジーによって提示された根拠とは、情報や痕跡といった、不在であるか、あるいはミクロな次元の記憶として抽出されることのできる、手がかりであり、それらは時間的な距離の中のどこかで、物質的な外在性として「書き込まれたもの」としての、エクリチュールの次元であった。それは事象を巡る、プログラムされたものの痕跡を次から次へと発見し、見出していく解読の方法である。

グラマトロジーの思考とは、それまで身体論として考えられていたものの実体を、歴史的なプログラムにおいて読み解くことによって、情報論の中で解体していく。洗い流していく・・・。デリダの透徹した認識論というのは、身体論的なものや主体性論的なものが存立するところにある、犯罪的ともいえるような根拠を暴き出すことを可能にした。このようにして、身体論の支配構造とは、何故それが啓蒙的で支配的たろうとする言説の構造の中で優位がもてたのかという経緯を巡って、それが存立しえた不純なカラクリというのも明らかにしうるようになったのだ。身体性というのはそれが信仰の対象になる時のように純粋なものというよりは、不純なものであり、人間的というよりもむしろ動物的なものに属している。しかしだからこそ逆にそれは、身体としての救いとして見出されることも、逆説的に可能になるものなのだ。

身体論的に囲い込まれた信憑性の閉域、かつ自己充足の中で、そのような身体論的支配の行き着く先にあった現象として、オウム真理教の問題を取り上げることができるだろう。映画「レフトアローン」の中でも、津村とスガの対話において、一歩間違えれば津村の方向性というのは、麻原と変わらなくなるのではないか?という問いかけがスガから発せられているものだ。津村はそれに苦笑いしながら応えている。

身体論の悪い意味での効果というのは、情念−passionの存在を身体に囲い込むことによって、情報鎖国の個体的充溢の状態を可能にしてしまうということにあるだろう。身体論において外部を失うこと。そのような外部の抹消する体験こそが主体にとって最もエロスに溢れた喜びと感じられてしまうという、完成された閉域性のシステムが、まさにオウムによって「修行」のプログラムとして出来上がっていた。オウム的な身体論にとって、そのような「解脱」の実現のためには薬物もフルに投入されたのだろうし、精力的な執念でこの超越的になるための完全なる閉所を完成させる、身体的忘我の体験への精進がすすめられていた。