『敵対的買収』の思想

2005年二月、日本の経済界に事件が起こった。インターネットの中から出てきた新興企業、ライブドアニッポン放送の株の大量取得に成功したというニュースが流れた。株は時間外取引によって知らぬ間に取得されていた。ライブドアの社長、堀江貴文は記者会見を開き、自分の目標が本当はニッポン放送の向こうにあるもう一つの巨大な対象であり、フジテレビの支配を狙っているという旨を世間に向けて暗に示した。このニュースを受けて日本のマスコミは騒然とした。堀江社長外資リーマンブラザースの力を受けて買収資金を調達した。いわゆるこれはM&Aである。日本の経済界はまだ大規模なM&Aに対して経験が浅かったこと。そして買収対象とされたものがフジサンケイグループという公共放送から公共メディアに関わるグループであったこと。そして堀江社長がまだ三十代前半でライブドアがネットビジネスの中で短期間に急激な成長をして触手を伸ばしてきた会社であることなどが、取り沙汰された。日本の経済慣習ではまだ企業買収に慣れていないという体質があった。これは本場として資本主義的に最も先行したアメリカでは、80年代に盛況し激しい攻防戦を見せていたものであった。だからアメリカではもう既にM&Aに対して一定の対策と予防策をもち落ち着いているという現状があるが、日本ではまだあまり免疫には乏しかったのだ。外資証券と組んで実行にうった堀江の手法は日本の経済慣習との間で様々な問題を巻き上げた。

まず会社はいったい誰のものなのか?という問題を巡って。商法の形式上は会社とは株主のものということになっている。堀江社長の主張の根拠はそのポイントを巡る自由主義的な解釈により、元通産省上がりの投資ファンド顧問、村上世彰と一緒に、経済界の変革を呼びかける。対するフジサンケイ側では、ところが会社に対する解釈が全く相反していた。フジテレビ会長、日枝氏の解釈では、会社とは現場のものであるという哲学を既に強固に持っていた。過去に日枝氏はフジサンケイグループの権利を巡り鹿内家一族のオーナー支配体制に対してクーデターを起こし、グループ会社を一族的支配に対して「現場主義」を掲げることによって奪取したという経緯があったからだ。まずここには、会社の価値解釈を巡って、株主主義と現場主義=当事者主義の間でイデー的な対立がある。

この時、攻防戦において、果たして「左翼」的に見えるのはどちらのサイドといえるのだろうか?自由主義的な流動性優位としてフロー財をバックに自己主張してきた堀江の側なのか?あるいは報道の仕事とはあくまでも現場的労働を至上とすることによって育まれる労働者主体主義を信条として生きてきた日枝の側の防衛反応なのか。会社の価値として、現場で努力し日々労働を積み重ねてきた当事者としての労働者の立場からその価値が図られるべきというのなら、フジテレビ会長日枝氏の主張こそが正しいだろう。同時にそれは、日本という国の資本主義体制が、その存立の根拠としてずっと維持してきた共同主義を、高度成長の向上の時代も含め、単なる合理主義的な資本主義ではない、人間的な根拠と維持も目的としてきた日本資本主義のモラリズム的側面をまさに体現し、今その試練に晒されているともいえる。それに対して、資本主義の合理的側面を最大限活用しながら、アメリカ的な前例を踏んで戦略化して出てきたのが、挑戦側としての、堀江・村上的なものである。

旧来の資本主義および労働体制に対して、更に合理主義的な新しい資本主義が呑み込みに来ている。しかし、日本の会社的な共同主義の社会は堀江的な攻勢に拒否感を示している。金銭によって自らの価値が還元されてしまったような有様に、フジサンケイグループの社員たちは憤りをおぼえ、そして嘆いている。労働と価値の判断において、当事者主義的な現場の人々は戸惑いをおぼえる。この戸惑いかたというのは、実は、旧来からの左翼に陣営的に関与してきた人々が、柄谷行人の攻勢に、NAMを立ち上げて自己を改めて宣伝し押し出してきたその柄谷の攻勢的自己主張に反感をおぼえるのと同じものであるのではないのか?

堀江貴文は最初に、フジテレビを支配したい、と嘯いた。これが本当は堀江のもっとも正直な発言であったのかもしれないのだが、そこに伺い知れるのは堀江的な権力への意志であり、彼の自己信条としている哲学である。この堀江の楽観的発言はすぐさま反感を買いマスコミからもバッシングを浴びた。そのような安易で幼稚な堀江的なナルシズムと真っ向から対立したのは、今まで長い時間を経て培ってきた労働努力の賜物としてのフジテレビとニッポン放送の財産、それは日枝会長体制に象徴されるものなのだが、堀江的な権力への意志と貨幣の敷衍主義=普遍主義の前に晒されて、簡単にも洗い流されてしまうようにも見える危機に立たされたのだ。ここで考えてみよう。堀江と同様に柄谷の欲望のあり方、NAM立ち上げを巡る一連の事件における柄谷的動機の正体とは、いったい何だったのだろうか?「左翼」を支配したい。そのような欲望の最も丸裸の単純な姿、欲望にとって最も単純な「権力への意志」のことをさして、資本主義のポテンシャリティというのだろう。なるほど、このとき柄谷が最も同一化しているのは、欲望の単純形態であり、それが様々な意匠の知識によって媒介されたものとはいえ、資本主義の欲動そのものなのである。実際、柄谷がNAMの組織によって、それがただの単細胞と見えるほどにも、権力的な振る舞いをしたがった、拘ったという理由もそこからすべて明らかに見えるだろう。

ここで改めて理解されうる事実性とは、左翼とは敵対的買収の対象とはなりえないものであるということなのだろう。決して敵対的な吸収の場所とはなりえずに、それは限りなく「人間的」な反抗を連ねていくものであるのだろうから、それは左翼と呼ばれるのであるという本質的な事情である。敵対的買収の対象とはならないということは、交換主義の支配に対して絶対にそこに還元されることを拒む残余を見詰めるものであるということだ。何故それでもそれが人間的な顔をしたがるのか?という事情に関しては根拠はない。単に人間だから人間の顔をしたいのだということでしかないのだ。それ以上に深い根拠も思想もありえないだろう。資本主義的な吸収力に対する、社会的な残余に基礎を置くものだから、それは左翼であり、歴史的にもそれは左翼であり続けてきたというものなのだ。柄谷行人が最も見失っているもの、そして最も知らなかったものとは、この左翼のリアルな社会的生態であり、リアルなる左翼の存在論である。