経済闘争の本質

もちろん地域通貨を前提にした新通貨を発行したところで現実にはそれが実体的な価値をもって流通することは難しい。新しい共産主義=経済的革命の基準を地域通貨に据えたところで、その現実性というのは覚束ないものだろう。

その点については岩井克人がNAMの始まる以前にもう既に的確に指摘していた事情である。地域通貨LETSのようなものの発行が多く出てきたら、実際の現実経済はハイパーインフレーションを起こすだけだろうと発言している。NAM前夜におけるそのような岩井克人の警告は全く正しかったはずである。だから妄想的に膨らみあがった対抗経済の幻想が地域通貨LETSによって公になり広まる前に、そのような種類の新通貨の流通する現実味はありえないということになる。

ただ柄谷によって構想された対抗運動の内実というのが、経済的なシェアを巡る争奪戦に基準を置くものであり、経済的な購買消費の運動の中でそれが為されるために、それは闘争でありながら、形式的な非暴力を遵守して行われうること。それが過激な権力奪取のスタイルを伴わない対抗運動であり、経済的な貨幣保有率の割合によって資本や国家に圧力をかけようというものであるので、もしそれが可能で出来得るものなら最も合理的有効性を持ちえた闘争の方法だったかもしれないという事情があげられる。

経済的なシェアをめぐる投機的な通貨運動=消費者運動として、それが行われる故に、それは形式的な非暴力を前提として貫きうる闘争である。議会への直接的な参加を迂回して、ただちに市場に語りかけて市場的実践が為される闘争であるが故に、それは選挙戦よりもスピードがはやく、経済力も主張の背景として伴うが故に、より実質的である。

柄谷の提案したこの経済スタイルの闘争形態であるのだが、このような闘争のスタイルがいったい何に似ているのか、どこからヒントを得て発展してきたものなのだろうか?おそらくこのスタイルの起源は想像にも難くないはずである。経済的なシェア争奪戦としての権力闘争のスタイルとは、そのままアメリカで80年代に開花し壮絶に米経済界を巡って展開された、資本主義の株式市場におけるM&Aのスタイル、方法論とこれは酷似しているのだ。

例えば株式市場のM&A(merger and aquisition)という企業買収の形態おいて、買収戦における攻撃側企業と防衛側企業の攻防を巡り、増資によって占有率の拡大を図ろうとする「新株発行」にあたる方法とは、NAM的な対抗運動においては、LETSの発行量=取引量の拡大によるサブ経済圏の拡大というものにあたるのだろう。

オルタナティブ経済圏として育てられた対抗運動の保有する経済圏が、全体的な一般経済圏のある割合において占有できていれば(株式用語でいえば「支配」が可能になっているのなら)、標的とした特定大企業や国家の流通支配下にある商品をボイコットで買わないことして、経済的に圧力をかける。

対抗運動の消費者側で買わなかった商品については同様の種類のものをサブ経済圏のもので調達することによってまかなう。サブ経済圏の全体占拠率をあげる。サブ経済圏の規模を対抗的に拡大するためには、その都度LETSの発行量を増やしてやればよい。

LETSの発行量を増やすということは即ち交換物件の数を増やすことによってLETSの取引量をあげることである。対資本あるいは対国家との政治的な駆け引きの状況に応じて、このLETS取引量の大小からなる経済占有率を運動によって上げてやればよいということになる。これら対抗運動の過程とは、政治的な駆け引きを巡るものでありながら(反戦決議など)、まったくもって経済的な闘争、消費者運動の延長上で行われうるものであり、政治的な決定を巡るプロセスにおいても非暴力ですべて事を進めることができるということになる。

しかしこれはすべて、左翼的な対抗運動の実在ということを念頭においた、柄谷行人の作った仮説であり、彼の書いたフィクションであるはずだ。そのような特別経済圏がどのような必然性によって社会の中で生じうるのか、というのは、いまだもってまったく謎であるわけだし、そのように統一的に対抗しうる対象が、市民の側から必要必然を伴って現れうると考えることは難しい。そこにはどうしても飛躍があり、これは物語や御伽噺と同様なものとして書かれた左翼的空想譚を多く含むと考えるのが正当であるだろう。

例えば反戦決議ということでは今回のアメリカのイラク戦争の決定プロセスを例にあげれば、それは必ずしも市民の同意がなかった戦争だったのではないという事情がある。市民的な同意のプロセスとして大統領選挙などを通してきたとしても、それでもやはりブッシュ政権が勝ってしまった。アメリカで市民の全体的なレベルで、必ずしも戦争の実力行使が望まれていないということはなかったことになる。(ブッシュとケリーがその実僅差で争ったのであり、ブッシュ政策の支持と不支持で全体の半分をギリギリのところで争っていたものとはいえ。しかし共和党でも民主党でもアフガン報復の空爆開戦には共に一致していたわけであるのだし、戦争というのは起きるときには、もうどうしようもなく起きてしまうものだともいえる。そして必ずしも反戦−非暴力一点張りが正義とはいえないという事実性もあるわけである。)

市民が何を望むのか、あるいは大衆が何を望むのか、全体的な統計として、というのは、統一的な対抗(運動)という左翼的なフィクションには、現実的にはとても収まりきれないものを含んでいるということを示すものだろう。これは何も、大衆はメディアでコントロールを受けているから、という問題だけでもないはずである。それならば統一的な対抗を波として人民の中に作り出す営みのほうが遥かに多くのマインドコントロールのプロセス(あるいはそれは啓蒙運動ともいうが・・・)を含まなければならないことになるはずだ。

統一的な対抗運動(資本と国家に対する)という甘いスローガンに含まれる虚構性、空想性を見抜けなかったら、左翼というシステムを前提として柄谷行人がどのようなトリッキーな罠を仕組んだのか、という事情までを、我々はとても見抜けなくなるだろう。