宗教の進化論と資本主義

近代ヨーロッパの社会では、資本主義化が合理的な歴史の進展としてシステムにとって明らかなものであるということが了解されてきたとき、そこでそれまでの社会の精神的な原理としての彼らの宗教、キリスト教の解釈の仕方においても、合理主義的で新しい切断の解釈が現れる。それがすなわちマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で明らかにしたところのものである。宗教とは常に、その社会の資本主義化の進展とともに、そこに合理的な解釈の転換を迫るものなのだ。

イスラム教や仏教の解釈体系においても、それは歴史の中で常に変わってきているものなのであり、原始的な解釈の、あるいは、極端な反現世志向の解釈の宗教体系とは、常にその都度切断されて淘汰されてきたものだ。イスラム教はその本性上常に商業的な慣習と共存し、金を儲ける営みと決して矛盾しない宗教的および倫理的な精神体系、戒律を示してきたのであり、中国の華僑と共存共栄する仏教、インド商人と共存するヒンズーと、宗教の解釈体系とは常に時代とともに変動してきたものだ。

そのようにして宗教体系というのは通常の場合、やがては必ず資本主義と共存しうる体系として出来上がり、歴史的な完成を見るものであるだろう。世界三大宗教というとき、それはだいたいキリスト教、仏教、イスラム教を指す。この三つが何故それほどまでの大宗教に育ってくることができたのかということについては、理由は比較的に明瞭であるのだろう。これらはいずれも資本主義と共存し、共栄しうる宗教になったからである。

結果的に残ることができた宗教というのは、いずれも資本主義との共−システム的な存在を確保することによって、自らの体系をずっと生き延びさせることを可能にした。逆にいえば、資本主義と共存できなった宗教、資本主義との共存を拒んだ宗教というのは、いずれも長生きできないで滅んできたのだ。あるいはマイナーなものとして、それらは社会の部分的残余として残り、細々と決して社会のメジャーには支配が取れぬまま、同時にそうであるがゆえに社会体制を結果的には更に強固に補完するような位置にある生態としてのマイナーなものとして、続くことになっただろう。

世界三大宗教と通常呼ばれるものだが、しかし我々はそこを世界四大宗教と見ることも、ある意味可能なのかもしれない。要するに、キリスト、仏教、イスラムに加えて、そこに共産主義の存在を見ることができる。共産主義とは宗教批判をその基本原理にしながらも、しかし実践的にはそれがいつも最も宗教には近い。否定的な意味での宗教的実在としての、現実の共産主義の存在である。

しかし共産主義はやはり先の三大宗教にはどうしても収まりきれない、原理的な過剰を持っているといえる。何故ならそれは資本主義の否定というのを原理的に内在させた宗教であるからだ。共産主義の孕むそのような原理的宿命ゆえに、共産主義の存在は、資本主義の全体的体現であり開花としてのアメリカ国家から、絶対的な異物として敵視を受けるに至る。

キリスト教、仏教、イスラムの三大宗教が何故今まで生き残ることができたのか、巨大な宗教体系を実現することができたのか、という理由は、単にそれが資本主義との共存を可能にした宗教であったからというだけではなく、同時にそれが、歴史的にいずれかの時代で、帝国の宗教としての役割を背負うことになって、巨大なシステムの統治を任された時代があったという過去に負うところが多い。

それでは共産主義はどうであろうか?たしかにソビエト=ロシアの統治を過去に可能にし、中国の統治さえも果たしてきた共産主義はその体系的で教義的な発展において、これら「帝国の宗教」という条件も既に満たしてきたように見えるだろう。

柄谷 「たとえば、フロイトの考えでは、人間社会の変革は困難である、というより不可能である。しかし、フロイトはそれでも啓蒙主義的に、何とかできると思っていた。その点でラカンは違う。カソリックだからね。人間はどうせ罪深い、人間は変わらない、それでいいわけです。ジジェクなどもそうです。カソリックの人たちは、そういっておいて、あとは神にお祈りすればいい」
スガ 「(笑)そういうことになっちゃうよね。それはね」
柄谷 「昔から、カソリックの作家はそうでしたね。見たところ、これがキリスト教かというようなことをあえて書く」
スガ 「クロソウスキーだってそうだよね」
柄谷 「あれは二重底になっているんでしょうね。底にキリスト教があるから、表では何をやってもいいと。だから、彼から見たら、サドはカソリックの作家だっていうことになるわけでね。まあ実際にそうだったのでしょうが」
スガ 「もちろん、そうですよね。日本でも、遠藤周作がサドで研究はじめるんだからね」
柄谷 「僕がいいたいのは、人間にいかなる悪の要素があろうと、せいぜいそれを発現せさせないようなシステムを作れるのではないか、ということです。それを根治しようなどと思うと、絶望して最後は神にたどりつく」
『LEFT ALONE』書籍版

ここで柄谷行人の使う「カトリック」という語の用法が奇妙に面白いことに注目すべしである。マックス・ウェーバーによれば「経済的に発展した諸地方がとくに宗教上の革命を受け入れるべき素質を強くもっていたのは、どういう理由によるのだろうか」、という社会構成比率におけるドイツの宗教宗派の割合変化の分析からはじめている。しかしここでウェーバーによって抽出されている「プロテスタンティズム」とは、資本主義化の浸透によってもたらされた勤勉で禁欲的な真面目な労働主体の育成および一般化という、主体にとってのディシプリナリーな側面の発達のことをいうのであって、結果的にドイツのその過程を経てでてきたのが神経症を常に内在させた倒錯的ともいえる近代的主体の真面目で均一化されたスタイルだとすれば、プロテスタンティズムは必ずしも主体性の発展過程に自由をもたらしたものとはいえない。

しかしこのプロテスタントに媒介された真面目な労働主体の養成と一般化が近代ドイツの資本主義的な発展の飛躍を促した、精神的なメカニズムとしては時代的によく機能したのだ。それはクリスチャンでありながら、「資本主義の精神」としての真面目さであり、倫理である。ドイツで人口の信仰上の割合が、カトリックから切断がおきてプロテスタントへと移行していく過程とは、純粋な宗教的義務としての禁欲生活を送ることと、そこに貨幣経済によってもたらさせる世俗的な社会生活の次元、つまり世俗的義務との兼ね合いの時点で、そこにどのような折り合いを付けるかというポイントを巡って展開されているものである。

経済行為と経済生活の次元を、世俗的な堕落として退けるのか、あるいは貨幣経済に関与し、一定の禁欲の履行によっても得られるところの蓄財について、それらをまた新たなレベルでの宗教的な義務の実現のレベルまで、範囲を広げて捉えなおすべきなのか、というのが宗教的な精神生活、および生活慣習の社会的に移行していくポイントの話だった。

つまりプロテスタントとは世俗上の経済的な義務にも忠実であれという命令を下すが、カトリックの場合、経済的な世俗性への加担をそんなに快くは思っていなかったのだ。特に顕著な傾向は、貨幣を堕落だと考えることなどであるだろう。しかし宗教改革以降のプロテスタントには、そういう傾向はあまりなく、合理的に経済活動(世俗的義務)への解釈が変更されている。蓄財は必ずしも堕落ではなく、また別の側面からの社会貢献へ宗教的にも貢献しうるものとして、むしろ禁欲とともに奨励される。だから柄谷的にいえばこれは、貨幣経済に対する合理主義的な態度においてカトリックプロテスタントの間では決定的に異なっており、そこには切断があるということになるのだろう。