廃墟としての左翼

法政大学の学生会館。もういつ当局から取り壊しになってもおかしくはない古い建物であり、学生たちによる占拠(=学生の立場からいえばそれは「自主管理」である)が為されてから相当の時間も経っているものだ。学生たちはこの市ヶ谷の学生会館がまだ建設中だったとき、もう乗り込んでいた。そして時代の流れと熱さにまかせて一気にここを大学側から奪取することに成功した。60年代の出来事である。

学生がここをとったとき、この建造物がまだ工事中であったということは、工事の中途で投げ出されてしまった、学生会館の外見の至る場所にいまだに証拠として見受けられている。まずこの学生会館には塗装というのがなされていない。剥き出しのコンクリートがそのまま打ち付けられたままで、最低限の完成レベルで、もう権限は学生サイドの手中に入ったものだ。外見として、大都会の市ヶ谷の一角に何も塗装も装飾も為されなかったコンクリートそのままの建造物の存在は、確実な異彩を放っている。

この異様な建物は実際、法政大学の一般学生の大半からは最初から敬遠されているし、またそれが致し方ないという事情も、今まで何十年間も大学では続いてきたものだ。外見の存在の異様さに加えて、学生会館は内部も異様ではあるのだろう。それを見る人のセンスにもよるのかもしれないが、時代の一般からいえばそれは違和感は否めない。しかしそれは慣れてしまえば心地よい異和とでもいうのだろうか?全く内装が業者から為されなかったので、学生会館の内部とはコンクリートの冷たい側面がそのまま剥き出しになったまま、どこもかしこも灰色の通路である。灰色の硬いコンクリートの通路には、そしてビラばかりが貼り付けられている。古いビラの腐った上には新しいビラが無造作に貼り付けられている。

新しい最近のイベントのニュースの下を辿ると、だから70年代のイベントの記事まで発見されることもあるだろう。奇妙なアナクロニズムが一旦開花されたままで、そこではずうっと長い間放置されているのだ。部室の中に入って見よう。部室の内装は各自サークルの判断に委ねられて、内装に気を使っているお洒落な部屋もあれば、最初にできたときそのままに露骨なコンクリートの断片が積み重ねられている、そのままの状態でずっと存在してきている部室もある。一部の階では部室はもう殆ど使われなくなったまま放置されているような場所も珍しくない。

80年代に半数の学部が法政では移転した、そこを使う権利だけは持っているものの、しかしそこを敢えて使う人達というのは殆どいないような、幽霊部室だらけのフロアも中にはある。この奇妙な空間。しかし見る角度を変えれば、これはやはり貴重な歴史記念物であるのかもしれない。いつまでこの建物の存在が持続できるのかはわからない。このまま廃墟化が進行し、気がついた頃には他の大学でも既に幾つかあった事件と同じように、当局から取り壊しを受けるというのは方向性からいえば筋ではあるのだろう。奇妙な建造物。奇妙なアナクロニズム。そして幽霊屋敷の存在感。

柄谷行人は法政大学の英語教師の職を辞してからもうしばらく経ってるの。2001年の暮れにスガ秀実と肩を並べてこの建物の中に入っていく。映画のインタビューを実施するためである。柄谷行人は自分が法政で教職を持っていた時代には、およそ全く縁のなかったこの学生会館の内部に、もう21世紀になってから、改めて入っていこうというのだ。

(スガ) 柄谷さんのおっしゃっている、くじ引きなり生産協同組合なりというのは、ある種革命概念の転換であるわけですよね。革命っていうのは中央権力を倒して、すごい派手な花火を打ち上げるものだという通念を転換するもので、それは僕も全くその通りだと思います。
『LEFT ALONE』書籍版 柄谷行人×スガ秀実「整体としての革命」

過去の左翼の歴史200年分を総括して、そして切断する。我の示すものとは唯一無比なる原理であり、それは超越論的統覚として左翼陣営の上に振りかざされ輝き、これまでの(ばかばかしい)左翼の歴史とは、なんら粛清される必要などなくとも、そんな暴力に訴えている暇も与えぬほどに、すべてこの原理のもとで自然淘汰される。21世紀の歴史とはNAMをもって始まる。云々etc・・・・。

このように語られた大見栄の切り方が、柄谷行人という人物にとっていったい何処から出てきたものなのかは、誰にとっても、間違いなくよく諮りかねるものだろう。しかしNAM原理をあえて社会に示したことによって、柄谷行人がいったい何処までの射程、可能性を示しえたものなのか、柄谷の主観からは離れたところで、我々は今あらためて分析しなおすことができるはずだ。