疎外論の時代

疎外論の時代とは日本では60年代のものであったということができる。疎外論は時代の流行でもあったし、認識論的なコードまでをも一時期覆ったのだ。疎外論とはその単純なわかりやすさ故に繁殖力も強かった。目の前に与えられた直接的かつ具体的なる現象について、これは=人間的ではない、と呟きさえすれば即座にそこでは疎外論パラダイムが出来上がるからだ。

誰にもでできるし、最もわかりやすい、それは目に見える明瞭性であり、直接的であるかあるいは可視的なものとしての、確実性の根拠を与えるものと信じられたのだ。同時に疎外論の時代とはそのシステマティックな必然性として、主体性論の時代でもあった。ここに疎外論と主体性論の相補性が生じるのだ。しかしそれは何故だろうか?

疎外論の代表的な哲学者がフォイエルバッハであったことを考えれば、疎外論と主体性論のペアになったシステムとは、すぐれてキリスト教の思弁的メカニズムの哲学的に記述され転移されてきたところの全体性哲学であったことが伺える。目の前に与えられた現実の次元を認識論的に捉えなおすことは、ただちにそのような個人が自己の立場として、そこにどうせねばならないかという主体的立場を自己決定として転換させるものとして、この主体性的認識というものの優位が唱えられる。

主体性の構造論とは特にヘーゲルから初期マルクスを参照しながら、その理論的根拠というのが強化されようとしたものだ。疎外概念(alienation)の基準にとって指標とされるものとは、人間の類的本質からの疎外としての、現実、すなわちそれは直接的で具体的な所与としての人間の現実のことである。

ヘーゲルにとって自己意識の否定的な自己疎外の過程として唱えられた精神の上向論とは、マルクス(『経哲草稿』)にとっては、生産手段を所有していない社会の現実的マスとしての労働者の存在にとって、労働生産物と生産手段からの労働者の疎外、それは人間にとって本質的な真実としての類的存在からの労働者の疎外、そして労働者と資本家との敵対として結果するところの、人間の人間からの疎外として位置づけなおされるに至った。これら認識論的に与えられた疎外を克服する立場として共産主義の存在が主張され示されることになる。

主体性ということで謂われているものとは自己陶冶の哲学である。しかしこのような時代にあってそれは単に自己統治(すぐれてギリシャ的な意味での)には留まることができずに、それは全体性の認識論的強制の中へと回収されていった。そのような全体性の希求と強制力の重力というのが、この時代の特徴であったといえるものである。

疎外論の時代というのは、具体的なものの優越と卓越性が信仰された時代の特徴であった。疎外論の時代とは、知識にとって冬の時代である。知識自体がもっとも生きづらく、自らの正直で本当の出自を隠さねばならない、疚しい視線の横行した時代だった。知識を疎外された現実という名のもとに従属せてしまう強制力は、印籠のようにして知識の純粋化された活性の瞬間を妨げつづけた。知識はある種の情念や怨念とセットとなったときが最もよく流通し、共有されたのだ。

実際そのころの日本はまだ貧しかった。貧しさと高度成長の生産体制の強迫的な回転の拍車の、全体的なプレッシャーの中で、経済的な貧富の格差が露骨に町中に投げ出された光景として差し出され、それらが無視できないくらいに目立ち、社会の判断を覆っていた時代のものである。その時代にはまだメディアの多様性もさしては実現されていなかったのだし、生活者が選択しうるチャンネルのようなものも乏しかった。しかし知識は不幸な衣装を纏わされていたにも係わらず、人々はまだ今よりは知識に対して飢えていた。知識は殆ど権力と同義のレベルとして流通した。

知識のまとうオーラは強かった。その時代の人々は知ることについての飢えというのを覚え始めていた。知ることの飢えとは、実際の腹のひもじさの飢えが満たされた次に来る種類の飢えだ。人々はその時代において、知への意志において飢えていた。疎外論の時代こそ、知識にとっては不幸であると同時に、知識に権力が付与される時代というのもまたとないはずなのだ。