構造主義と時間の空間化

1.
空間化とは、自然発生するのと同時に、社会体の維持にとっては必然的かつ絶対的に強いられている次元にあたる。空間化を共同的に、客観的に提示しうることは、社会の立場から生活体系を確定化する営為にもあたっている。

空間が発生的な生成の柔軟なる基底によって立ち昇るとき、そこにはいつも幻想生成のための自然な生態系が見られる。空間化の設定と幻想の生成とは不可分な生態系として一定の歴史的な基礎を携えている。そのような基礎とは社会的前提として、時間性の歴史的−社会的に培われて育まれてきた一定の文法規則によって、主体の前にはアプリオリに実在している。

幻想は単にわれわれの本性から由来するものではなく、われわれが住む世界、まずわれわれに示される存在の側面から由来する。・・・ベルグソンにとって持続は、物の可変的な本質となり、複合的な存在論のテーマを与えるものとなるので、次第に心理的経験には還元できないものに思われた。しかし他方では同時に、ベルグソンにとって空間は次第にこの心理的実在からわれわれを隔てるフィクションに還元できないように思われ、その結果、空間もまた存在の中に基礎づけられ、二つの斜面のひとつ、二つの方向のひとつを表現するものとされた。ベルグソンは絶対には、形而上学が浸透した精神と、科学が知っている物質という二つの側面があると言うのであろう。
ドゥルーズベルグソンの哲学』方法としての直観

幻想が立ち上がってくる基底とは、空間の既定される歴史性と主体の存在論的な場所の取り方によって生成を見る。しかし存在が自己の根拠としての空間を捉える様相とは、身体に心理的な度合としての反映を映し出すものであり、そのような心理的実在、感覚的把握自体もまた存在論的次元の奥底からは既定されて限界付けられているのがわかる。

主体が世界に対して投影する幻想の根底にある存在論的な底辺自体が、何かの強度の実在によって、世界の反映として屈折のバウンドも何回も潜ってきた実在として、脳の立場からは把握されている。

2.
主体の判断能力の背景に実在すると見られるこの前−直観的次元の、複数的に在りえる強度の胚胞の質的な差異の散在するフォーメーションの中から、どれがこの実在に正確に対応しているのかという判断が瞬時に計算されているのだ。

世界内存在として主体が世界に経験的に慣らされていく中から所有される、これら主体の直観力の根源とは、常にそれが世界の経験的な反映の記憶の種子として、錯覚に陥るか、物象化された実在として宙に浮いてしまうという傾向的性質を、時間の進行して過ぎ行く中で負わされているものだ。

生きられた体験とは、もうすぐ次の段階には過去の実在として時間的な記憶のサイクルの中に、脳の活動の奥底では投げ込まれ続けている。生きられた体験が過ぎ去ったものと成るとき、それは痕跡的な実在として記憶のデータベースの中に、脳的な作業として送り込まれるのだ。そのような痕跡的実在に、後から心理的に主体が気がつかされるとき、それは記憶を想起によって強化する作業にあたるのと同時に、もうそのようにして再把持された記憶的実在とは、何かの心理的な対応物としての度合を所有することも発生している。

そして事物を度合として脳が所有し続けようとする営為とは、常に物象化と錯誤的な心理配分の傾向をも持ち続ける。これは身体と脳の統覚にとっては不可避の認識論的な次元にあたる。我々は常に傾向的にある錯覚の傾向を問い続け、正しく把握の経済的配分を持ち直し続けざるえない。ベルグソニズムにとって強度の直接的存在とは、まずそれが批判の平面上に載せられるためにあるのだ。

3.
ここで最も批判的に抽出されているものとは、直接的であるが故にそれがリアルであると感じられている時の強度の存在こそである。世界を身体に介在させて脳によって観取するとは、身体および感覚的な神経に反映された強度の実在について、幾つかのバウンド-屈折の過程を経てそれが脳に届き、主体には把握されている。

しかしこの実在についてのこの強度の存在が果たして正確なものなのか、あるいは偽のものなのか、強度の存在論的な根底を疑いなおすことによって、審査を繰り返す。直接的なものに向かいなおすために、直接的なものの強度を問い返していく。どの角度からみたときに、この強度とは正確なものとして実際に運動を起こしうるのか。

4.
しかしそのような審査によって無限遡行していくことは、同時に主体の活動を無限に遅延させることによって停止しかねない。ネガティブな営みに陥ると同時に、行動と脳的思考との紐帯を無意味なものにしてしまいかねないだろう。

幻想の根底にあるものが虚構の部分を含まざるえないことが自覚されながらも、それでも虚構の連関によってそれは現実についての正確な対応物を実践的に切り開くことは可能なのだ。強度そのものの存在を主体の前に純粋な関係として抽出し措定しなそうとする試みは、強度が強度そのものとして自律的に運動を開始させるポイントが来るのを待機している。

ベルグソンの一番目の主著である『意識の直接与件についての試論』は、心理学、もしくは精神物理学における「強度」の概念の批判から始まっている。彼によれば、さまざまな心理的状態に強さの度合いを設定しようとすることは、「偽の問題」である。彼はこのことを、最も心的なものとされる悲哀や憐憫の「感情」から、身体への直接の刺激によって起こる痛みや熱さの「感覚」に到るまで、詳細に事例をあげながら論じている。心理学が、或る状態を他の状態より「強い」と言う時、そうした強さの度合いは、同じ性質の状態に関する<大小>の観念を含んでいるしかない。・・・実際には、ひとつの悲しみが、それより小さいとされる悲しみから異なるのは、その質によってであって、原因の量に対応する度合いによってではない。両親を亡くした一人の子供の悲嘆は、母親を亡くした別の子供の悲嘆の二倍でも三倍でもない。二つの感情を度合いの差異において比較させるものは、まずそれらの感情に与えられた同一の名前であり、次に、同じ名を持つ二つの感情を、目盛りの上に並べる同質的な空間の設定である。だが、一つの感情が他の感情から異なるのは、その質の全体においてでしかない。
ドゥルーズ『記憶と生』解題「度合の哲学としてのベルグソニズム」

しかし最初の問題提起としての認識論的なこの段階では、まだ問題は何も解決されていないというべきであるだろう。存在とは他の何物にも、抽象的な構造にも、解釈的なカテゴリーにも還元されないと主張することは、まだ実存主義的な主観性の罠の中にいると考えられるものだ。

直接的なものの次元の解釈をめぐって、それは直接性であり、生の存在であるが故に他に還元不可能だというとき、実際にはそこには無限の相対主義しか見出されなくなる。何物も他には比較不可能であるが故に、そこに思考の正確さが問題を立てる試み自体をなし崩し的に排除する傾向というのも発生しやすい。

ここでドゥルーズベルグソニズムの思考−運動について決定的な転回点を見出すものだ。現実の生の存在とは差異化の強いられる絶え間ざる生成と敗退の過程の中に常にあるのであり、存在の現実性とは、差異化と度合の発生の最中にある格闘的な生の実在である。そこでは度合の測量的導入によって存在が虐げられ動きを止めてしまう現象が見られるのと同時に、度合の現実的な膨張および収縮の連続の中で、存在が生存を賭ける闘争状態の中で跳躍としての生を成し遂げている、現実的な現場、進化の現場でもあり続けている。

5.
それでは存在にとって、相対的で他の所有物では決してなく、存在自身の絶対的なる内的な度合の体験というのは、どこでどのようにして出会われるものなのだろうか。生がその自己認識と共に存在論的な次元を自らの生成として取り戻すとき、そこには死んだ差異としての形式的な枠組ではなく、生の実際の跳躍としての絶対的で質的な差異の変化が経験されているはずなのだ。

そして、存在の内在的に見出されるものとしての、度合の中の爆発こそは、それが正確な内在的破裂を見るときには、存在を主観の制約のそのまた一歩外部にある物理的な客観的世界性との統一へと、自然に回帰させる力をもっているはずなのだと、このような場合には想定されている。

ベルグソンの哲学は、いかなる時でも、<度合>に関する膨大な思考でうねり、満たされている。それは、彼の哲学が<それ自体としてあるもの>をめぐる執拗な探究にほかならず、この探求は、あらゆる空虚、否定、対立といったものから事物、身体、運動、記憶の存在を解放し、それらのものを弛緩と収縮との限りないニュアンスのなかで統合し、分化させる哲学だからである。活動する私たちの現在は、もろもろの空虚、否定、対立によって成り立ち、運行する。だが、ベルグソンにとっては、<それ自体としてあるもの>は、潜在的なものであり、充満し異質化し浸透し合うものであり、弛緩と収縮との<度合>によって運動し、運動の目的と方向を<度合>の中の爆発によってついに創造するものである
ドゥルーズ『記憶と生』解題「度合の哲学としてのベルグソニズム」