ベルグソニズム

1.
ソラリスの海の様に不定形のマグマ状の流動の中に還元して世界を見れるとしても、それはあくまでも断片的で極端な視点に止まる。すべては煎じ詰めれば結果的に一であるからといって、我々はいつもそこから始めることは出来ない。それは無意味な還元主義にあたる。事物の潜在的なる背後霊のようなものとして「器官なき身体」の次元が垣間見れるのだとしても、現実にはいつも我々の世界とは器官の多数性に囲まれている。

我々にとって世界とは、空間化と構造によって、定義して与えられている。空間と構造とは世界の現実性にあたる。我々の日常とは時間の空間化に取り囲まれている。時間の空間性を捉えるこそは、時間自体に対する飛躍のあるフィクションであるのと同時に、システムとは空間化された時間によって回転を再生産させるのが日常的な進行である。

ベルグソニズムの解釈をめぐって、二〇世紀の時代にあって一定のプロセスを経てそれは変わってきているものだ。レヴィ・ストロースベルグソンの哲学について批判的である。フランスでベルグソンの次の世代に当たるのがサルトルであり、サルトル的な自由の解釈が世界に対する主観の投影性の優位を主張するものだったのに対して、実存主義に対する転倒として現れたレヴィ・ストロース構造主義的思考の提示したものとは、むしろ主観の自由さを跳ね返して押し戻してしまう、客観的な構造の堅牢で確固たる実在次元である。

主観の立場から投影される恣意的で流動的な決定因の不明瞭さに対して、客観的な事物の次元において存在を捉え返す事物=構造の明瞭性というのは、直接的なものの存在感について、また別のアスペクトを与えたのであり、ベルグソン的な世界解釈の系譜に対する逆転を与えた。

ベルグソニズム--それは、様々な存在や事物を、一旦、粥のような状態に還元してしまった上で、それらのものの言うにいわれぬ本性をよりよく取り出そうとするのであるが--の信条や不当な前提の代わりに、私は、存在や事物は、その輪郭--存在や事物相互の境界を明らかにし、それらのものに理解しうる一つの構造を与えるような輪郭--の明確さを失わないままで固有の価値を持ち続けうる、ということを知った。認識は、断念や物々交換の上に成り立っているのではなく、「真」の様相、すなわち、私の思考が所有しているものと符合するような様相を選び取ることのうちに存しているのである。それは、新カント派の学者が主張するように、私の思考が事物の上に、或る不可避の制約を及ぼすからではまったくなく、むしろ、私の思考がそれ自体として一つの対象だからである。「この世界に属するもの」として、私の思考は、「この世界」と同じ性質を享けているのである。
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』

レヴィ・ストロースにとって、ベルグソニズムの提示する認識論とは抽象的に過ぎて、故にそれは事物にとって不当な前提を押し付けているものだと考えられているのだ。つまりそれが世界に与えようとしている想念(想像力)とは自由であるのと同時に主観的に過ぎて、とても世界自身にとっては押し付けとしか思われないものであると見なされている。むしろそのような抽象性とは結果的に主観の恣意性のいい加減さを招き、独我論的な相対主義の横行に閉ざされてしまう。

2.
サルトルの論理から結果したものとは、主観主義的な超越性というのがそのまま、世界に対する行動主義の妄想的な現実遊離へとと閉ざされていく傾向的なる現象であった。ベルグソン的抽象性としての流動性の世界観に対して、本当の事物の次元とはもっと明瞭に、その輪郭の具体性によって存在感を示すものと考え直された。

事物の輪郭的な具体性とは抽象的なレベルにおいてもそれは構造的な明確性として損なわれるものではない。むしろ構造主義にとって目指されているのは、具体の輪郭性と抽象の構造性の一致としての統覚的な把握にあたっている。それは素朴に実在するものと抽象的にあるはずの全体的な構造との統一として、世界の構造化から全体化にいたるまでの認識論的な道筋を示すものの思考としてある。

アプリオリな空間の把握と共に、空間化の設定とは、主体にとっては、そこに自己運動のための根拠を生み出す、個人のための基底−巣を作る営みとして自発的な営為にあたるのと同時に、社会的な前提を共同的に、自らが関与する社会に提示して了解をうる行為にもあたっている。この空間化の設定に失敗し続けることが、社会的な観点からいえば狂気の次元にあたるものだ。

空間化の構成とは本来、主体にとってそれをコントロールしうる面積とは実際には限定されているものでもある。無意識および社会的背景によって、そこに偶然的なモメントも多く含む、力の流れとしての運動性が有無を言わせず通過しながら、それらを全体的に巻き込みながら、形成されている。