DEEP PURPLE at Royal Albert HALL

DEEP PURPLE at Royal Albert HALLというDVDを借りてきて見た。最近のディープパープルがクラシックの楽団と競演して曲を演奏しているというもの。ギターを弾いてるのは、スティーブ・モースである。ディープパープルのギタリストとは、初代のリッチー・ブラックモアから渉って三代目である。

ディープパープルには今まで三人のギタリストが雇われているのだ。リッチー・ブッラクモア、トミー・ボーリン、スティーブ・モースである。ぼくの個人的好みで言えば、二人目のトミー・ボーリンが一番いい。トミー・ボーリンはディープパープルでは一枚しかアルバムに参加せずに、事故で死んでしまったのだが。トミー・ボーリンのソロワークがいいのだ。もうイブシ銀のアルバムである。

「TEASER」というアルバムがいい。隠れトミー・ボーリン系影響に育ったギタリストというのも探せばいろいろありえるものだ。後のエディ・ヴァンヘイレンにしろ、スラッシュにしろ、トミー・ボーリンから盗んだに違いないというフレーズは痕跡として発見することができるはずだ。しかも何よりもトミー・ボーリンのキャラクターがもっている美学的なセンスがよいのだ。いかにもという感じのアメリカの正統派的なセンスではあるのだが。フレーズのそれぞれをとってみても、逃走的で解放的で、そして自由な境地を愛しているといった感の精神性は伝わってくる。そしてその保守的で安定したサウンドの懐かしさにおいて、アメリカ人ギタリストとしての正統派をいっていると思わせるものだ。

ディープパープルというのは成り立ちとしては完全にイギリス人たちのイギリス系バンドであった。リッチー・ブッラクモアのクラシカルなセンスというのは、まさにブリテンのものである。古典的な形式美の世界にロックの形式をもっていこうとする傾向は常に潜在していた。ボーリンが事故で死んだ頃にはブラックモアは自分のバンド、レインボーで活動していた。ブラックモアズ・レインボーのポップとしての完成度も高いのだが、ボーリンが特にソロで探求していたサウンドの世界というのは、単なるポップとしての完成に止まらずに、速弾きによってテクニカルに旋律を逃走させていく様相というのが、彼の身体の中に深く希求された内在的な自由の次元に常に迫真的に近づこうとしている、彼の真摯なる探究心の息吹というのが、切に、リアルに感じさせられるのだ。

しかしこの三人の中では、結果的には、スティーブ・モースがギターは一番うまいのだろうとは思う。もっとも穏やかで危険性がなく優等生的なギタリストなのが、最後のスティーブ・モースであったということもできるだろう。穏やかに秘められたジャズのノリを、フレーズの細かい場所に散りばめていくスティーブのテクニックなのではあるが、時に思い出したように突如、無方向にわたる攪乱的な空間を垣間見せうる彼のギターは、静かながらも、やっぱり過去の記憶としてのハードロックの荒ぶれとしての痕跡を、懐かしく想起させてくれる、音の博物学的な愉しみを見せてくれる。

このDVDのコンサートは、最後はSMOKE ON THE WATER で終わるのだが、あまりにも有名になったあのギターのイントロに、歪みを与えるアンプの音の作り方というのが、もうこれ以上にないというくらいに、破壊的で、ラフで、軽く、これがロックというジャンルの一番底にある部分によって構成された、考え抜かれた、歴史の凝縮された歪みの音なのだろうと感じられる。エッセンスとしてのヘヴィメタルなのだ。