左翼主義の起源Ⅱ

1.
宗教に始まる革命思想のあり方というのが、宗教批判を経て共産主義思想の中へ一大合流するに至る。そのとき任意の宗教形態Xというのは、等しく唯物論的に人類学的な形態の俎板に載せることが出来る。最初、共産主義の理念というのは、そのような科学的なる還元主義によって一元性のシステムとして機能した。

共産主義の横で共産主義に並行する形で明らかになってきたのは、資本主義を自由主義の立場から守り、擁護しようとするリベラリズムの思想的な台頭であった。かつて共産主義リベラリズム的な寛容性と対立するものであったのではあるが、共産主義的一元主義自体が自らの機能不全によって内的な必然性として破綻し、そのような寛容主義に取り込まれざるえなかった。

共産主義の運動としての傾向というのは二種に分かれる。一つは組織的であると同時に官僚的であることを志向する形式であり、もう一つはプロレタリア的な下降を忠実に意図することによって、社会の庶民的なレベルでの道徳的維持を堅固として守る共同性の草の根的で市民的な有り方としてである。

前者は限りなく知識的な傾向を帯びることによって、左翼の中でエリート主義的な傾向を作り出し、知識的な啓蒙主義の構成を奨励し、知識−権力としても機能する。後者は、社会の庶民的なレベルにおいて、あるいは底辺的なレベルにおいての最終的な人間的抵抗のあり方として機能し、人権主義的な獲得の問題、平等主義の実現のようなものに、その機能的な活動の核心をおくことになるだろう。

2.
実際に共産主義国家を立国した体制では、共産主義的な知識のあり方というのが、そのまま官僚制に結びつき、党的で全体主義的、独裁的、権威主義的な傾向性として機能するに至る。それは左翼エリート主義としての左翼の官僚化することによって内的に自壊し腐敗する一つの傾向である。

それに対して、資本主義国家の自由主義圏の中で止まり、自らの内的な必然性として発生する左翼性の形態、反体制の集団の性質というのは、草の根的で庶民、大衆的なレベルでの、最終的な人権の主張手段として、現実的に機能するものである。

もちろん共産主義国家も資本主義国家も問わずに、ひとつの国の人間的な生態の中で、これらの左翼にまつわる二つの傾向性というのは常に同居している。似非のエリート主義としての左翼的知識性の傾向と、草の根的底辺的な人権運動としての左翼運動の生態というのは、常に一つの国の中で、一つの体制の中でも同居して、二極的に分化された生態で共存する二つの左翼性として現象するのだ。「体制」の中では左翼性というのは常に二極に分解している。

エリート主義的なものと下向主義的なものである。かつては宗教的な体制の中でも同様の現象とはあったはずだ。左翼についての二極分解のこの二つの傾向とは、そのまま知識の性質の二面性にも共有されているものだ。知識も左翼性も一方では剰余価値の生産に与し、左翼的にそれが実現されているときには幾分か複雑な屈折した反映性を伴っている。しかし知識も左翼性ももう一方ではその理想的で理念的な機能性としての、下向的な救済性に向かっても常に開かれているものであることを、内的な必然、宿命的な必然としても内在させているものなのだ。プロレタリアとは左翼にとってそのような無限に実現されるべき超越的な理念性を示していたものだった。

3.
プロレタリア概念と類似する超越的な下向性とは、宗教思想のシステムにおいては汎生命論のようなものにもあたるだろうか。元々は、一寸の虫にも五分の魂、というような諺にそのような下向的な理念性および超越性とは内包されていたものといえる。宗教的な菜食主義の発想というのは、生命体の範囲を想像的に動物界にも反映させる汎生命論的な志向を根拠にしている。

無殺生、非暴力のような理念に、宗教的な汎生命性の立場から、それが戒律的に機能する宗教の体制の中では、僧侶階級、あるいは宣教師的な教育者の啓蒙の次元に関わるシステムとして存在していた。

しかしプロレタリア概念が宗教的な汎生命論とは異なり、そこから合理的かつ経済論的に進化を為したところとは、想像的な反権力性に埋没するのではなく、むしろ積極的に「持たない者」が権力闘争に訴えかけ、暴力的なやり方をもってしても権利を獲得すべし現実性に着地しようとした積極的な性質にあるはずである。宗教的な想像性(故にそれは妄想的超越性のエロス的体験である)に比べて、マルクス主義のプロレタリア概念とは現世−奪還的であり、非常に闘争的なものである。ドゥルーズガタリ的にいっても、それは「革命機械とは戦争機械である」のスローガンを忠実に反映しうる経済的な合理性の機械的な延長である。

4.
「持たざるもの」についての下向的=超越的な理想主義論とは、起源とはもちろん宗教思想の中に内在している。ジャイナ教には「無産者」についての潜在的な発想が見られる。財産や所有を嫌うジャイナ教の発想とは、無産者が理想であるがゆえ裸で生活することを理想と謳った主義をもっていた。それはインドの南方的な楽観主義の宗教的性質である。

裸であることが即無産者であることだというのは素朴なシンボリズムではあるのだが、所有の観念について、持たないことによって、捨て去ることによって、マイナスで下向し続けることによって、崩壊と同時に深い世界との一元主義的な一体感のエロスを獲得しようという志向とは、自己犠牲主義としての宗教的エロスの観念には根深く浸透し、いかなる宗教の形態であろうとも、その点については横の一線に同様の傾向を見出すことは可能だろう。

イスラム原理主義などでの自爆テロの発想も、そのような自己滅却であり、自我を捨て去ることを神、あるいは世界、あるいは世界史、共同性との一体感に還元しようとするエロス的行為の形式である。共産主義的な主体性の次元においては、そのような自己犠牲的共同性の性質とは、自己否定と呼ばれた。自己否定という概念化に関与したのは、元東大全共闘山本義隆であった。

(ちなみに最近、山本義隆は自分の物理学についての研究本を出版したことでも話題になったものだ。)