左翼主義の起源

近代において形成された資本=ネーション=ステートというボロメオの環を、そのような基礎的な交換の形態から解明すること。そして、それらを揚棄しうるものとしてアソシエーションを見出すこと。アソシエーションとは三つのタイプの交換とは異なる、交換の形態です。その後に僕が考えたのは、このアソシエーションの原型が普遍宗教としてあらわれた、ということですね。そういう観点からあらためて宗教の問題を考えはじめたのです。古来、宗教的な運動は実は社会運動であったし、逆に、社会的な運動はいつも宗教的なかたちでなされてきた。今日のイラン革命イスラム原理主義にもそれがあてはまります。むしろ、普遍宗教をアソシエーションの形態としてみる必要がある。だから、最近、あらためて、宗教について考えるようになりました。
週刊読書人インタビューより)

柄谷行人は宗教とは近代的な体制、あるいはそれ以前の原始的な人間社会のあり方においても、その本質的な機能とは「アソシエーション」であったのだろうと述べている。

個人が他者と繋がりにいくやり方であるのと同時に、現世的な社会観について問題意識を構成し、超越性について構成する場所である。近代の社会にあっては、宗教の実在の次元がそのまま社会運動の実在の次元を同時に担っていたものだったという事情を柄谷行人は語っている。

では、資本主義に対する対抗運動のほうはどうなっただろうか。…ネグリとハートは、帝国を解体する「マルチチュード」の反乱の例として、原住民の運動、環境運動とともに、イスラム原理主義の運動をあげている。しかし、これらをたんにマルチチュードの多様な反乱としてみるだけでは、何もわからない。なぜそのような運動があるのかについて、構造論的な把握が必要なのだ。私の考えでは、それらは「アソシエーション」として位置づけられるべきものである。そのことによってはじめて、資本、国家、ネーション、宗教などの相互関係が明確になる。そして、すくなくとも、資本と国家を揚棄する道筋が明確になる。さもなければ、反グローバリゼーションのさまざまな運動は、相互に孤立し対立するか、ネーションや宗教に呑み込まれてしまう。そして、そのことによって、結局、国家に吸収されてしまうのである。

アソシエーションとはこのような記述の仕方によって新しく抽出されているとき、これは新しい概念であるのだろう。アソシエーションの訳語として今まで、連合とか連帯とかあっただろうが、新しくアソシエーションという概念を見つめなおすときに、実はそのどれもがずれがあって微妙に当てはまらない。もっと単に、純粋に、繋がること、接続すること、個人が繋がりを求めて他者へと赴き出て行くことをさすべきである。

左翼運動のこれまで存在してきた意義とはなんなのか。あるいは左翼運動の中に、近代史から現代史の中においても内在していた、肯定的に摘出しうる本質とは、具体的に言えばそれは何なのかということが問題になる。左翼運動や社会運動が大前提としていたのは常に人々のアソシエーションの形式をめぐっているものだ。このとき純粋な交流性という立場から、これらの歴史的な行動学の遺産とは再検討されうるのだ。しかし別に社会変革とかそんな大義名分を掲げなくてもいい。単に人間交流というレベルでも、アソシエーションの形式とはいつも社会的に時代に応じて要請され続けてきているし、実際に時代の何らかのアソシエーションの形式がずっと存在してきたのだ。

それらアソシエーションについての表象というのが様々ありうる。人によってはそれが特定の宗教の名前だろうし、サークルの名前、左翼運動や社会運動のそれぞれ名称によって、それらアソシエーションの形式とは担われている。

それら純粋交流の形態においてアソシエーションとは広義に考えられるのだが、しかしこれはやはり柄谷行人の規定したがっているアソシエーションの概念とは違うのだろう。柄谷行人にとっては、アソシエーションとは純粋交流の次元ではありえない。それはもっと、否定的な形式で倫理的に媒介されたものを指して、おそらく彼はアソシエーションとしてよびたがっているのだ。

だからそのときアソシエーションの概念とは限りなく宗教的なものの次元に近づいていく。普遍性という不可視の否定的な主体性に媒介された重みを担うものとして、意識的な訓練の形態として、このアソシエーションの形式を見出そうとするのだ。だからそれは限りなく宗教的な態度にも近いものとなりうるし、共産主義の歴史的な主体性を継承するものとして考えられることにもなる。

柄谷行人にとってアソシエーションの形式とは意識的で主体的なものであり、それは契約的で責任の次元の経済的な重さを常に明確にしようという意図によって担われようとしたのだ。そのような契約的な重みを量的に計算しうる手段として、LETS、地域通貨から市民通貨への機能というのを、責任の倫理的な具体的形成として見出そうとしたものだ。

しかし実際の現実的なアソシエーションにとって、そのような具体的な形成の重みというのは、逆に、アソシエーションの形式を必要以上に拘束し、動きにくくし、限りなくその運動神経を鈍らせるものとして現象した。なぜだろうか。アソシエーションとは元来それが哲学的に純粋化される形式にて考えられる度合いにおいて、アソシエーションの実体とは、意識的で契約的なものというよりも、無意識的で浮遊的なものに近づいていくはずだからだ。

無意識的で浮遊的であるアソシエーションの次元というのは、アソシエーション形式の二重性として現われ、だからコンスタティブというよりもパフォーマティブな次元でこそ、その活動の幅を広げることになるはずのものである。アソシエーションの次元について意識的にハッキリとさせすぎてしまう営みとは、逆にアソシエーションにとっての現実的なものの次元を裏切り続けて、その運動を導いてしまうことに結果する。

このような二律背反性において、アソシエーションというのは実定的なものというよりも、目に見えない部分を常に多く含む運動体なのであり、倫理的なものの次元を明瞭化して、確実性としての主体化をしようとするほどに、逆にそこでは倫理的なものとは実際には欺かれ、裏切られ続けるしかないという、逆説的な事態に陥るのだ。